誠実な愛には嘘は許せない第2話
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信夫はこめかみを押さえ、我慢の限界といった様子で言う。
「もういい、今夜は一旦落ち着こう。
詩織、ちょっと考えてみてくれ。こんな些細なことで、俺たちが積み上げてきた時間も、思い描いてきた未来も、それにお前の両親の期待にまで背くっていうのか?本当にここで終わらせていいのか?」
ドン、と扉が閉まる音が響いた。
私は抑えきれずにえずいた。
背中は弓のように反り返っているのに、何も吐き出せない。
涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざり、見るも無惨な顔だ。
泣き終えたあと、ようやく迷いが吹っ切れた。
タクシーを拾って帰り、荷物をまとめる。
かつては期待に胸をふくらませて引っ越してきたこの家を、今は惨めな姿で去っていく。
思わず、自嘲気味に笑った。
ちょうどその時、スマホの通知音が突然鳴り響いた。
夏目橙子(なつめ とうこ)がSNSに投稿したものだった。
キャプションにはこう書かれている。
【独身で迎える最後の年越し】
写真の背景は海辺だ。信夫が片膝をつき、橙子にプロポーズしている。
胸の奥が、鋭く痛んだ。
画面を消すと、そこに映ったのは血の気の引いた自分の顔。
その後、荷物をまとめる手さえ震えていた。
もういい、これで終わりにしよう。
実は滑稽な話だけど、京西市で信夫の治療に付き添ったこの三年間、私は仕事を捨て、交友関係も断ち、唯一頻繁に連絡を取っていたのは記憶喪失の治療をしてくれる医師だけだ。
私の世界は、信夫を中心に回っていた。
彼が別の女性に夢中になっていた時でさえ、私は彼を庇う理由を探していた。
私はいつも自分に言い聞かせていた。彼は病気なんだ、ただ覚えていないだけ。きっと思い出して、元通りになると。
けれど、すべては演技だった。
突然、電話が鳴る。
父からだ。
「詩織、信夫さんのほうから聞いたんだが……ちょっと揉めたのか?」
「……うん」
喉が詰まった。
ちょっともめたなんかじゃない。父に伝えたかった。
彼と別れるつもりなのだと。
「お父さん、私……」
けれど、口の中が綿で塞がれたように、言葉が出てこない。
どう言えばいい?
信夫がずっと記憶喪失のふりをしていたなんて?
すべては別の女と結婚するための芝居だったなんて?
「詩織、本当は言うつもりなんてなかったんだ……でも、言わなくちゃいけない」
私がまだ言葉を探しているうちに、父が話し続いた。
「お母さん……もう、そう長くはないんだ」
突然、喉元まで込み上げてきた苦しさと抗議の言葉が、一瞬にして凍りついた。
「お父さん……今……なんて言ったの?」
「末期の肺がんで、もう治る見込みはないんだ。お前に余計な心配をかけたくなくて、黙ってたんだよ。
今日電話したのはな、信夫さんの記憶障害の具合が気になってさ……それと、お前たち、いったいいつ結婚する気なんだ?お母さんはな、今は気力だけで持ちこたえてる。お前が幸せそうな花嫁姿を見るのが、唯一の願いなんだ……」
その後も、父は何かを話していた。
けれど、私の耳にはもう何ひとつ届かなかった。
ただ、耳の奥で低く唸るような音だけが響いていた。
電話が切れた。
母の最後の願いは、私が信夫と結婚すること。
けれど、彼は――
私は自嘲気味に笑った。
一人でスーツケースを引きずりながら、あてもなく大通りを歩きだした。
いつの間にか雨が降り出していた。
細かい霧雨が、やがて豪雨へと変わっていく……
私は街角に立ち尽くし、全身がずぶ濡れになっていた。
そのとき、不意に頭上に傘が差し出された。
顔を上げると、そこにいたのは信夫だ。
彼は記憶を失う前と同じように、私を強く抱きしめた。
彼の腕の震えが、はっきりと伝わってくる。
「一緒に帰ろう……
詩織、もう決めたんだ。橙子とは結婚しない」
信夫は私のスーツケースを奪い取るように持ち、私を助手席へ押し込んだ。
そして約束するように言う。
「心配するな。ちゃんとけじめをつけるから。橙子とは、きれいに別れる。
それに、詩織、お前のお母さんのこと……おじさんから話は聞いてるよ……」
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