誠実な愛には嘘は許せない第3話
この話は約1628字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
「すぐに結婚しよう」
私は何も言わず、ただ呆然と彼を見つめる。
彼の身体から漂う見知らぬ香水の匂い、襟元についた見覚えのない口紅の色――
それは、別の女の痕跡だ。
目を閉じると、ただ虚無感だけが胸に沈んでいく。
それでも信夫は、私に盛大な結婚式を挙げ、母に私の幸せな花嫁姿を見せようと繰り返し口にしている。
私は頭を傾けて車窓にもたれ、返事をする気力さえもなかった。
その後の半月、私は感情を殺したまま結婚式の準備を進め、母の看病を口実に病院に泊まり込み、信夫との接触を極力避けた。
彼は怒ることもなく、完璧に約束を果たした。
橙子と別れて、私のために、最も華やかな結婚式を準備しようとしていた。
彼は仕事まで断って、病院で私と一緒に夜を明かした。まるで理想的な婿のように振る舞っていた。
母の顔色も少し良くなり、私の手を握りながら彼に言う。
「信夫さん、詩織のことをよろしくお願いします。これで安心できますわ」
信夫はその言葉に応えるように私の手を取り、指をしっかりと絡めて、真摯な眼差しで言う。
「お義母さん、俺は一生、詩織を大切にします」
母の真剣な眼差しを見て、私は目を伏せ、小さくうなずいた。
けれど胸の奥は、水をたっぷり吸い込んだ海綿のように重く沈んでいた。
すべては、何も変わらぬ日常のはずだった。
異変が起きたのは、ある午後のこと。
信夫が急用で会社に呼び出され、私はひとりで病室へ向かった。
扉を押し開けると、母の世話をしていた介護士が別の人に替わっていた。
その顔を見た瞬間、私は息を呑んだ。夢の中でさえ忘れられない顔だ。
信夫の初恋、橙子。
彼女はちょうど母と話していた。
「……彼氏とは本気で愛し合っているんです。でも、別の女性が過去の恩を盾に、結婚を要求してきて……もう……」
母はそれを聞きながら、顔に同情の色を浮かべた。
私は扉のところで立ち尽くした。全身の血が一瞬で凍りつくかのようだ。
「詩織、来たの?」
母が私に気づき、微笑んだ。
「夏目さん、本当に気の毒ね……でもあの子もね、好きでもないのに、無理やり二人の間に割り込むなんて。どうしてああいうことができるのかしらね」
私は引きつった笑みを浮かべ、母の言葉を遮る。
「お母さん、お粥を持ってきたの。さあ、ちょっと食べてみて」
それから橙子のほうを振り向き、静かに言う。
「少し、外で話せる?聞きたいことがあるの」
廊下の突き当たり。
私は橙子を見つめて言う。
「さっきの話、わざと母に聞かせたの?」
橙子の顔から穏やかさが消え、唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。
「自分のことを話しただけよ、何か問題でも?」
「私たちの問題に両親を巻き込まないで」
私は声を抑え、できるだけ理性的に言葉を選ぶ。
「私たち二人とも被害者なんだ。話せばきっと――」
「被害者って?」
彼女は鼻で笑い、私の言葉を遮った。
「いい?そんな芝居、私には通用しないわ。
信夫が本当に好きなのは私。結婚したいと思っているのも私よ。
横から割り込んだのはあんたの方でしょ。彼に無理やり結婚させて、あの余命僅かのあんたの母親を喜ばせたかっただけじゃないの」
私は拳を固く握りしめ、反論したい、ぶん殴りたい衝動に駆られた。
だが、必死にこらえた。
ここは病院だ。騒ぎを起こしたくないし、何より、母を刺激するわけにはいかないのだ。
「私のことは何と言われても構わない。でも、母を侮辱するな」
彼女は一歩詰め寄り、低く渋い声で、魂を抉るような言葉を投げつけた。
「言ったらどうなの?余命いくばくもないクズが……」
頭の中で張りつめていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
気がつくと、掌がひりひりと痺れた。
彼女の頬を、思いきり打っていたんだ。
橙子が悲鳴を上げ、よろめきながら顔を押さえる。
「何してんだぁ!?」
信夫の鋭い声が響く。
彼は素早く駆け寄り、橙子を庇うように背中に隠すと、私の手首を握った。力は強く、逃れられない。
「詩織!どうして人を叩くんだ!」
橙子はすぐに彼の背に身を寄せ、涙をこぼしながら、震える声で口を開いた。
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