誠実な愛には嘘は許せない第1話
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藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。
記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。
医者は治る見込みがあると言った。
それで、私は彼の治療に付き添ってきた。
三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。
京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。
酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。
「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。
でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」
信夫は嘲笑った。
「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。
あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」
私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。
記憶喪失なんて、嘘だった。
全部、演技だったんだ。
まあ、これでいい。
これからは、彼は自由だ。
私も自由だ。
* * *
藤原信夫(ふじわら のぶお)は記憶を失い、私、佐藤詩織(さとう しおり)のことをすべて忘れてしまった。
記憶は、彼が初恋を最も愛していたあの年で留まっている。
医者は治る見込みがあると言った。
それで、私は彼の治療に付き添ってきた。
三年もの間、私は何の立場もなく彼の世話をしてきた。
京西市の社交界では、やがてそれが誰もが知る笑い話となり、そして、私がいつ諦めるか、信夫がいつ思い出すかということが、賭けの種にされていた。
酔った彼を迎えに行った夜、偶然、彼と友人の会話を聞いてしまった。
「記憶喪失のふりとは、見事だな、信夫。夏目さんとも堂々といられるし、家には佐藤詩織って家政婦がいつまでも居座っている。
でもよ、夏目さんと結婚するんなら、佐藤をどうする?」
信夫は嘲笑った。
「あの女か?あいつはな……俺がいなきゃやっていけないよ。その時は、ちょっと甘い言葉で宥めて、橙子と結婚するのは記憶を取り戻すためなんだって説明すれば、絶対信じるさ。
あいつの性格からして、俺が離婚するのを待つなんて当然、たとえ橙子との間に子供ができたって、喜んで面倒を見てくれるんじゃないかな」
私は身動きが取れず、その場に立ち尽くした。
記憶喪失なんて、嘘だった。
全部、演技だったんだ。
まあ、これでいい。
これからは、彼は自由だ。
私も自由だ。
個室には、私と信夫だけが残った。
彼は次から次へと煙草を吸い、床には吸い殻が散らばっている。
「もう聞いちまったんだろう?なら隠す必要もないな。
俺は橙子と一緒になるために記憶喪失のふりをしてたんだ。でも、お前との付き合いも長いし、俺も……」
彼は顔をこちらに向け、赤くなった私の目を見つめる。
信夫の表情が一瞬で柔らいだ。
「もういい、こんな話はやめよう。
このことはなかったことにして、前みたいにやっていこう、な?」
彼の手を避け、私は冷たく告げる。
「別れよう」
信夫の笑みは瞬時にして凍り付いた。
彼は私の手を離し、煙草に火をつけて、少し疲れたように言う。
「俺は別れない」
「じゃあ、彼女と縁を切って」
信夫はじっと私を見つめ、長い沈黙のあとで口を開く。
「詩織、正直に話すよ。
俺が橙子と結婚しようと思ったのは、ただ意地みたいなものだ。
五年前、あの女は金のことで俺を捨てた。それが三年前、また金目当てで戻ってきた。
だから、あいつと結婚して、彼女が俺を愛するようになった時に、今度は俺が捨ててやろうと思ってな。あの時の俺の痛みを、思い知らせたかっただけだ」
彼は顔を上げ、私の表情を探るように見つめる。
「詩織、彼女への復讐が終わるまで待ってくれないか?」
復讐?
私を騙して、記憶喪失のふりをした。
名も立場もないまま、私は三年間も彼の世話をしてきた。
それなのに今度は、別の女と結婚するって?
それがただの復讐だと言うの?
胃酸が逆流するような不快感に襲われ、洗面所に駆け込み、こみ上げる吐気を押さえようとした。
「そんなに大げさに反応することないだろう」
信夫が後を追ってきて、そっと私の背中を撫でた。
「さっきも言った通り、あの女との結婚は一時しのぎに過ぎないんだよ。
俺が本当に愛してるのは、ずっとお前だけだ」
私は振り向いて彼を見る。
その目には心配の色がたたえている。
何年も愛し続けてきた、あのいつもの彼の姿。
なのに今では、胸がむかむかするほどの嫌悪しか湧いてこない。
「愛してる?本気でそう言うの?
愛してるっていうのに、記憶喪失のふりをして、この名もなき私に三年も尽くさせておいて!愛してるっていうのに、この都合のいい女を浮気相手にしようってこと?」
信夫は眉をひそめ、少し苛立ったように言う。
「そんな言い方するなよ。浮気なんて、ありえないだろ?橙子とのあれは全部芝居だ。本当に好きなのはお前だけなんだ。
確かにお前を騙した。でもな、お前がそれを気に食わないと思ったからだ。
本当に悪かった。だから、そんなに拗ねるなよ」
そう言って、彼は私の髪に触れようとした。
「触らないで!」
私は勢いよく彼の手を払った。
彼の手はそのまま宙に浮いて、動かなくなった。
この三年間、私は名分も立場もなく、彼に付き添い、世話をし、治療を支えてきた。
それでも、愛があれば乗り越えられると信じていた。
でも、今になってやっと気がついた。
これは、愚かな私のただの一人相撲だったのだ。
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