和紙文記憶を捨てた私は元婚約者の親友に溺愛される · 第1話設定≡

記憶を捨てた私は元婚約者の親友に溺愛される第1話

この話は約3475字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

「桜井様、こちらは記憶置換センターでご予約いただいたサービスの同意書です。実行日は2週間後の結婚式当日、方法は記憶催眠、対象者はご本人様でお間違いありません。こちらにご署名ください」

桜井梨花(さくらい りか)は頷き、書類の最後のページに迷いなく署名した。

繁華街を歩きながら、梨花は一人で家へ向かっていた。大通りの向かいにある巨大ビジョンでは、経済チャンネルが氷室凌真(ひむろ りょうま)のインタビューを流していた。

映像の中の彼は、仕立ての良い黒いスーツに身を包み、誰もが息をのむほど洗練されていた。

北央の名士たちの頂点に立つ彼は、「ストイックな男」として知られる一方で、3か月連続で「世界中の女性が抱かれたい男ランキング」の1位に君臨していた。

梨花と7年にわたって人知れず交際してきた彼が、まさかカメラの前で突然、結婚を発表するとは誰も思っていなかった。

たちまちスタジオ中から息をのむ声が上がり、プロ意識の高い女性司会者でさえ、驚きに目を丸くして尋ねた。

「3年前に芸能界を引退した、あのトップ女優の桜井さんですか?」

凌真は笑顔で頷き、カメラに向かって愛情たっぷりに語りかけた。

「梨花、俺が一番苦しかった時期に、そばで支えてくれたのはお前だった。成功を手にしたら、必ずお前に最高の結婚式を贈ると約束したよな」

映像の中の愛情あふれる場面に、通りすがりの若い女性二人が興奮して抱き合い、羨ましそうに声を上げた。

「きゃあっ!氷室社長、桜井さんのことが好きすぎる!」

「氷室社長と桜井さんって、幼なじみでしょ。18歳で待ちきれずに告白して、20歳の時には貯金を全部はたいてルビーのティアラを買い、『お前は永遠に俺のお姫様だ』って言ったんだって。22歳で北央の一等地に邸宅を買って、絶対に裏切らないって誓ったらしいよ。

23歳の時、桜井さんが撮影中にけがをしたら、氷室社長は自分が血液凝固障害を抱えているのに、彼女に輸血するため無理をして命を落しかけたんだって。見事に返り咲いた今も、一刻も早く桜井さんを妻にしたいなんて。この世に、こんな一途な男の人がいるなんて信じられないわ!」

* * *

その言葉を聞き、梨花は皮肉な笑みを浮かべた。

誰もが、学生時代から結婚まで続く二人の恋に羨望の眼差しを向け、凌真が彼女を心から愛していると信じて疑わなかった。

だからこそ、そんな男が血の繋がらない姪の涼宮瑠奈を愛し、梨花に隠れて5年間も秘密の関係を続けていたなど、誰一人として想像すらできないだろう。

彼が「会社の用事だ」と言って出ていった無数の夜が、実は瑠奈と身体を重ねていたと知った時、梨花の心は鋭い刃物で切り裂かれ、血まみれになったように痛んだ。息もできないほどの苦しみだった。

真実を知ったあの夜、梨花は胸が張り裂けるほど傷つき、涙が枯れるまで泣いた。

ふと、7歳の頃、初めて冷ややかな雰囲気をまとった凌真に出会い、恋に落ちた日のことを思い出した。

15歳になると、梨花はどこまでも彼の後をついて回ったが、彼の態度はいつも冷たかった。

18歳の時、凌真の実家が破産し、両親は借金を苦にビルから飛び降りた。薄暗く湿ったアパートの一室で、少年は手首にナイフを押し当てていた。

その瞬間、梨花が部屋のドアを押し開けたのだ。

それから彼女は彼の莫大な借金をすべて返済し、女優として絶頂期にあったにもかかわらず芸能界を引退してまで、彼の再起を支えた。

彼が不安そうに「どうして俺を好きになったんだ」と何度尋ねてきても、梨花の脳裏に浮かぶのは、彼が身を挺して自分を守ってくれた記憶ばかりだった。

中学生の頃、不良たちに路地裏で囲まれた時、彼は梨花を助けるために片腕を骨折し、大好きだったフェンシング部を辞めることになった。高校3年の冬合宿では、スキー場を雪崩が襲い、彼は梨花をかばって肋骨を2本折る大けがを負い、3か月もの間、病院のベッドから起き上がれなかった。

交際を始めた日、彼は先祖代々伝わるブレスレットを梨花の腕に通し、「これから先の人生はお前だけと一緒にいたい。絶対に裏切らない」と誓った。そして、「あと3、4年だけ待ってくれ。必ず幸せにするから。頼むから、絶対に俺から離れないでくれ。お前がいなくなったら、俺はおかしくなってしまう」と懇願した。

苦楽を共にした7年間、梨花は凌真を世界のすべてだと思い、全身全霊で愛を注いだ。

彼も自分を命がけで愛していると信じていたのに、まさかこんな残酷な裏切りが待っているとは思いもしなかった。

自分から愛を告げ、絶対に離れないでくれと言ったのは彼なのに、先に裏切ったのも彼だった。

それなら、過去を断ち切り、彼の記憶を自分の中から完全に消し去って、新しい身分で生き直すしかない。彼が二度と自分を見つけられないように。

梨花が手を伸ばして頬の涙を拭い、その場を離れようとした時、1台の黒いマイバッハが突然、彼女のそばに停まった。

ドアが開き、新品の濃紺のスーツを身にまとった凌真が降りてきた。袖口のカフリンクスが、陽の光を浴びて冷たい輝きを放っていた。

梨花に気づくと、彼は穏やかな笑みを浮かべ、足早に近づいてきた。

「梨花、テレビ局で待っていてくれって言ったじゃないか。インタビューが終わったら、婚約指輪を選びに行く約束だっただろ?どうして一人でこんなところまで来たんだ?」

凌真はそう言いながら彼女の手を取り、その体がすっかり冷え切っていることに気づくと、慌ててスーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩に掛けた。

「指先がこんなに冷たいのに、上着も着ないで。風邪でも引いたら、心配で俺がどうにかなりそうだ」

梨花は答えず、ただ静かに彼を見つめた。彼の目に浮かぶ不安と深い愛情は、決して演技には見えなかった。だからこそ、命がけで自分を愛してくれたはずのこの男が、なぜ自分を裏切ったのか、梨花にはどうしても理解できなかった。

梨花は一言も発しないまま、凌真に有無を言わせず抱き寄せられ、車へと連れていかれた。

宝石店の前に着き、梨花が車から降りると、待ち構えていた店長が恭しく出迎えた。その目には、隠しきれない羨望の色が浮かんでいた。

「桜井様、氷室様が特注された3万7000個のダイヤモンドをご用意しております。婚約指輪にはどのデザインがお好みか、どうぞご覧ください。残りのダイヤモンドは、一枚の絵画に仕立ててご自宅へお届けいたします」

20歳の頃、凌真の宿敵が37個のダイヤモンドで梨花を買収しようとしたことがあった。彼女はためらうことなく、それを拒絶した。

凌真に理由を尋ねられると、梨花は微笑んで答えた。

「あの人はあなたの宿敵でしょ。私を買収しようとしているのは、あなたを陥れるために決まってる。あなたを傷つけるようなことをするはずがないわ」

凌真は低く笑った。

「37個なんて、俺じゃお前には贈らないよ」

「あなたに出会えただけで、もう十分幸せだと言ったでしょ」

梨花は無邪気に笑った。

「だから、たとえ目の前に3700個のダイヤモンドを積まれても、私は絶対にあなたを裏切らないわ」

凌真は梨花をまっすぐ見つめた。夜のように深い瞳は、何もかも呑み込んでしまいそうだった。

梨花が言葉を失っているのを見て、店長が笑顔で言葉を添えた。

「桜井様、あまりの喜びに呆然としてしまわれたのですね!」

梨花は答えず、ただ背後にいる凌真へ視線を向けた。彼はスマホを手に何かを見つめており、その目には隠しきれない温もりが満ちていた。

そんな眼差しは、瑠奈に向ける時にしか見せないものだった。

梨花の視線に気づくと、凌真は慌ててスマホをしまい、少し申し訳なさそうな顔で歩み寄ってきた。

「梨花、ごめん。会社で急な用事ができて、今すぐ戻らなきゃならない。運転手はここで待たせておくから、指輪を選び終えたら家まで送ってもらってくれ」

そう言うと、彼は梨花の額にそっとキスを落とし、振り返ることもなく別の車に乗り込んで慌ただしく去っていった。

その場には、梨花一人だけが取り残された。

店長は大きなピンクダイヤモンドをうやうやしく差し出し、梨花の前へ進み出た。

「桜井様、こちらはいかがでしょうか。氷室様が幾度も海を越え、熱意をもって競り落とされた逸品でございます。世界にただ一つ、永遠に色褪せることのない一途な愛の象徴でございます」

この指輪が二人にとってどれほど皮肉な意味を持つのか、知っているのは梨花だけだった。

梨花は視線を戻し、静かに首を横に振った。

「どれも要りません」

どうせ2週間後の結婚式で、彼を待っているのは「死んだ」桜井梨花なのだから。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)