花嫁すり替え、それでも春は来る第2話
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魂が抜けたように、未知瑠はふらふらと立ち上がり、騒がしい個室を出た。
背後から知華の声が追いかけてくる。
「送ろうか?」
未知瑠が首を横に振って断ろうとした、その矢先だった。
知華は聞く耳も持たず、まるで当然のように話を続けた。
「まあいいよ。私、今から穂月呼びに行くから。和智ってね、今夜はもう、頭の中は穂月のことでいっぱいでしょ。式の前くらい、ふたりを好きにさせてあげてもいいでしょ?あんたも気にしないよね?」
未知瑠の返事など待たず、知華はくるりと踵を返し、個室へ戻っていった。
深夜の街を、未知瑠はひとり歩いた。
遅れて押し寄せてきた悲しみと痛みに、未知瑠は何度もえずいた。
高校時代、大雨の日の下校時。皆が帰ったあとも、和智だけが大きな傘を差して校舎の入り口に立ち、まるまる30分も彼女を待っていてくれた。真っ先に傘を未知瑠の方へ傾け、そっと鞄を受け取ってくれた。
大学の頃、高熱にうなされた夜。街じゅうの薬局を何軒も駆け回り、彼女の部屋の前でずっと待っていてくれたのも和智だった。
就活につまずいて、道端でうずくまり泣き崩れたときも。彼は優しく未知瑠を抱きしめて、「俺がいる。俺はいつでもお前の逃げ場だから」と言ってくれた。
社会人1年目の誕生日には、手作りのケーキを用意して、「これから毎年、一緒に祝おう」と約束してくれた。
何年も寄り添ってくれた、そのすべてが演技だったなんて。あまりにもリアルで、あまりにも完璧で、長い間ずっと、自分を欺き続けていた。
涙がついに堪えきれず落ち、手の甲に当たって弾ける。凍えるほど冷たかった。
未知瑠は魂が抜けたまま前へ歩き続け、頭の中は真っ白だった。
眩しいヘッドライトが視界を照らし、耳を突き刺すようなブレーキ音が響いて、ようやく我に返った。
車の窓が下り、運転手が顔を出して怒鳴りつけてくる。
彼女は呆然としたまま、反射的に数歩後ずさった。
顔を上げた瞬間、心臓がずんと沈んだ。
目の前にあったのは、荷台を透明なカバーで覆ったトラックだった。その中には、真新しい限定モデルのスポーツカーが収められていた。
透明なケースの外側には、金文字で大きくこう書かれていた。
【穂月、27歳の誕生日おめでとう。お父さんとお母さんは、あなたがずっと健康で幸せでいることを願っています】
その眩しさに、目を背けたくなった。
ふと、未知瑠は自分の誕生日のことを思い出した。
物心ついたときからずっと、両親から届くのは決まってPayPayで送られてくる5000円ぽっちと、投げやりで冷たい【誕生日おめでとう】のひと言だけだった。
毎年、それだけ。一度たりとも変わらなかった。
道端でしばらく立ち尽くしたあと、彼女は心が空っぽになったまま踵を返し、家路についた。
ドアを開けると、母が顔を上げ、未知瑠を見るなり責めるような言葉を浴びせてきた。
「もうすぐ結婚するっていうのに、こんな遅くまで外で何してたの。お酒まで飲んで。だらしないったら」
彼女が口を開く間もなく、母は思い出したように付け加えた。
「そうだ、ウェディングドレス届いてるから。あなたの部屋に置いといたわ。時間あるうちに試着しときなさい、何か問題があったら困るから」
喉の奥がひりついた。それでも最後の淡い期待にすがるように、未知瑠は小さな声で尋ねた。
「お母さん……今年の誕生日プレゼントは?」
母は一瞬きょとんとしたあと、どうでもよさそうに手を振った。
「和智くんと無事に結婚できること、それがあなたの人生でいちばんのプレゼントでしょう。穂月がどれだけ苦労してきたか、あなただって分かるでしょ?贅沢言わないの」
未知瑠は唇を歪めただけで、それ以上何も言わず、自分の部屋へと戻った。
真っ白なウェディングドレスが、静かにベッドの上に広げられていた。
けれどよく見れば、裾の縁にはしわが寄り、ヴェールは乱れ、ウエスト部分には誰かが試着したような跡までくっきりと残っていた。
未知瑠は力の入らない手を伸ばし、そのドレスをゆっくりと身にまとった。
鏡の前に立ち、鏡に映る自分を静かに見つめる。
姉の穂月と自分は、目元や眉のあたりがよく似ている。
ふと、頭の中がぼんやりと霞んだ。
これまでの長い年月、彼は未知瑠の顔の向こうに姉の面影を見ながら、少しでも未知瑠自身に本物の気持ちを抱いたことがあったのだろうか。
未知瑠は勢いよく手を振り上げ、その手を目の前の鏡に思い切り叩きつけた。
バリンッ。
鋭い破片が手のひらを切り裂き、真っ赤な血が瞬く間に溢れ出す。指先を伝って滴り落ち、真っ白なドレスの裾に飛び散った。
物音に驚いた両親が、慌てて部屋のドアを開けて入ってきた。
父は床に散らばったガラスの破片を一瞥し、眉をひそめた。
「理由もないのに、また何を騒いでるんだ」
母もすぐに顔色を変えたが、その視線が真っ先に向いたのは、ドレスの裾に散った赤い血の染みだった。気に留める様子もなく無造作に手を振った。
「あら、いいじゃない、ちょうどいいわ。穂月が今日ドレス見に行って、このデザインあんまり気に入らなかったって言ってたのよ。明日また新しいの注文しに行きましょう」
そう言いながら、ようやく娘の真っ青な顔に気づいたのか、一瞬言葉を止め、慌てて付け足した。
「あなたの結婚式とはいえ、穂月の意見も大事なのよ。あなたは黙って従っておけばいいの。親が娘に悪いようにするわけないでしょう」
そう言い終えると、ふたりとも、今もまだ血が流れ続ける未知瑠の手には一瞥もくれず、そのまま部屋を出ていった。
未知瑠はその場に立ち尽くしたまま、涙はもう涸れ果てていたのに、胸の中の穴だけがどんどん大きくなっていくのを感じていた。
スマホを手に取り、迷うことなく、退職届を提出した。
この街には、もう一秒たりともいたくなかった。
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