舟はもう、君を待たない第1話
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俺は瀬戸晃平(せと こうへい)。俺たちが暮らす水郷では、女性が愛する人のもとへ嫁ぐとき、自ら一艘の手漕ぎ舟を造り、その舟の上で婚礼を挙げる風習がある。
付き合って7年目の記念日、恋人の桐生未桜(きりゅう みお)は完成したばかりの舟の進水式を行った。
大勢の人が見守り、歓声を上げる中、俺の胸も激しく高鳴っていた。
いざ舟に乗ろうとしたそのとき、彼女の親友たちが声を潜めて話しているのが耳に入った。
「本当にこの舟、直樹にあげるつもり?晃平さんに怒られない?」
「そうだよ。晃平さんって結構気が強いし、あんまりやりすぎないほうがいいんじゃない?」
次の瞬間、未桜の何でもないような声が聞こえてきた。その口調には、妙な自信がにじんでいた。
「大丈夫。晃平なんてちょろいから。私のこと、死ぬほど好きだし。
それに、この水郷じゃ28歳になっても嫁をもらえなかったら、いつまでも結婚できない男だって笑われるの。だからあいつだって、騒ぐ勇気なんかないよ。
それに、婚姻届は晃平と出して、婚礼の舟は直樹にあげる。それなら公平でしょ。これで私も……心残りを一つ、なくせるし」
俺と結婚するのに、彼女の心にはまだ直樹への未練が残っていたのか。
ちょろい。
いつまでも結婚できない男。
その言葉の一つ一つが、耳の奥に鋭く突き刺さった。
喉の奥が締めつけられるように苦しかった。それでも、涙は出なかった。
ただスマホを取り出し、一通のメッセージを送った。
【母さん。言うとおりにするよ。俺ももう28歳だ。これ以上待つのはやめる】
* * *
薔薇の花でいっぱいに飾られた新しい舟が水面に浮かぶと、周囲から囃し立てる声が上がる中、俺は背中を押された。
「晃平さん、早く乗って!」
「晃平、7年だぞ!やっとお前らも結ばれるんだな!」
親友の倉田慎吾(くらた しんご)は興奮した声を上げていた。心から俺のことを喜んでくれているのが分かる。
皆が見守る中、未桜が舟を降り、こちらへ歩いてきた。
だが、俺のそばで足を止めたのはほんの一瞬だった。そのまま俺の横を通り過ぎ、最後に立ち止まったのは相沢直樹(あいざわ なおき)の前だった。
「誕生日プレゼント。気に入った?」
その声は軽やかで、どこか彼を甘やかすような響きを帯びていた。
辺りは不自然なほど静まり返った。
直樹の目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
二人は手をつなぎ、そのまま舟へ向かって歩いていく。
再び俺の前を通り過ぎようとしたとき、未桜は足を止め、何でもないことのように言った。
「晃平、この舟はひとまず直樹にあげることにしたの。次の舟はもう造り始めてるから、焦らないで」
面白がるように二人を見る者もいれば、俺の顔を窺う者もいた。
水郷でも有名な短気者の俺が、今にも大暴れするのを待っているようだった。
けれど、俺はただ静かに彼女を見つめた。「もういらないよ、未桜」
彼女はわずかに目を見開いた。俺がそんな反応をするとは思ってもいなかったらしい。
妙な空気になったのを察し、未桜の親友たちが慌てて彼女をかばい始めた。
「晃平さん、変に考えないで。未桜はただ、直樹の誕生日のお願いを聞いてあげただけだから!」
「そうそう。未桜のお婿さんになるのは絶対に晃平さんなんだから」
あまりにも苦しい言い訳を聞いていると、かえって笑いたくなった。
隣にいた慎吾は悔しそうに歯を食いしばった。
「未桜のやつ、よくこんなことができるな!
この水郷じゃ、女が一生に一艘しか婚礼の舟を造れないことくらい、あいつだって分かってるだろ!」
胸の奥に、じわりと苦いものが込み上げた。
そうだ。この水郷では、3歳の子供でさえ知っている。
女性が自ら造った最初の舟で愛する人のもとへ嫁いで初めて、夫婦が仲睦まじく添い遂げられると言われているのだ。
隣で、慎吾が怒りを滲ませた声で吐き捨てた。
「晃平、俺まで悔しくなってくる……
人の恋人にちょっかい出してる、ただのアシスタントだろ。未桜は何考えてんだよ!」
けれど本当は、直樹はただのアシスタントではない。
桐生家と古くから付き合いのあった家の息子で、ある事情から昔より桐生家の世話になっている。
だからこそ、未桜はいつだって直樹だけを特別扱いしてきた。
どんな場にも彼を連れていき、俺たちの記念日でさえ、俺に贈るものと同じように彼の分まで用意していた。
そしてついには、俺が7年間待ち続けた婚礼の舟まで、たった一つの「誕生日のお願い」のために彼へ贈ってしまった。
「もうどうでもいいよ、慎吾」
俺はそう言って、彼の肩を軽く叩いた。
ほどなくして、舟の上で一通りの儀式を終えた二人が岸へ戻ってきた。
直樹の口元にはまだ笑みが残っていた。こちらへ歩いてくると、いつもの無邪気な口調で言った。「晃平さん、未桜はただ僕の誕生日のお願いを聞いてくれただけですから、変に考えないでくださいね」
「未桜」、か。
ずいぶん親しげに呼ぶものだ。
俺が口を開こうとした瞬間、未桜が前へ出て、俺の肩を押さえた。「晃平、たかが舟一艘でしょ。こんなに人がいるんだから、騒がないで」
声は相変わらず優しかったが、その目にははっきりと警告の色が浮かんでいた。
「騒がないよ」俺は一歩後ろへ下がり、笑みを浮かべて直樹に頷いた。「誕生日、おめでとう」
その一言を口にした途端、辺りは奇妙な静寂に包まれた。
未桜は宙に取り残された自分の手を見て、一瞬呆然とした。
無理もない。
以前の俺なら、とっくに怒鳴り散らして大騒ぎしていたはずだから。
見ていられなくなった慎吾が、大声で未桜を問い詰めた。
「未桜、その舟をこいつにやったなら、何に乗って晃平のところへ嫁ぐつもりなんだよ!
晃平はもう7年もお前を待ってるんだぞ。いい加減、はっきり答えてやれよ!」
皆の視線が、一斉に未桜へ集まった。
俺も黙って彼女を見つめた。
心のどこかには、まだほんのわずかな期待が残っていた。
未桜。これが、俺がお前に残す最後のチャンスだ。
1秒。
2秒。
爪が掌に食い込むほど、拳をきつく握りしめた。
俺が耐えきれず、自分からその場を取り繕おうとした、そのときだった。
未桜はふっと笑い、さして気にも留めていないような口調で言った。「次こそは、絶対にね」
あまりにも軽い一言だった。
その場しのぎで、どこまでもぞんざいな答え。
胸の奥にかろうじて残っていた最後の愛情は、針を刺された風船のように一瞬でしぼんだ。
あとに残ったのは、不思議なほどの静けさだけだった。
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