秘密婚はご免!堂々と愛する先輩こそ本命第2話
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電話の向こうで、多賀幸人(たが ゆきと)は声を弾ませていた。
「よかった、菅野さん。谷岡先生もみんなも、ずっと君のことを気にかけていたんだ。来てくれると知ったら絶対に喜ぶよ」
かつて恭弥と結婚するため、麻奈美は海外留学を断念した。
この3年間、恩師である谷岡京志郎(たにおか きょうしろう)からの幾度とない誘いを断り続け、家庭に入って恭弥に尽くしてきた。
「ただ、菅野さん。この研究は極めて高い機密性が求められる。参加すれば数年、下手をすれば数十年は戻れないかもしれない。ご家族のほうは大丈夫なのか?」
麻奈美は小さく息を漏らした。
「もう……家族はいませんから」
母を亡くして以来、恭弥だけを唯一の家族だと信じてきた。
だが結局のところ、自分は身代わりの道具に過ぎなかった。
どうせ離婚を突きつけられるなら、自分の足で去ったほうがいい。
電話の向こうで、幸人が静かに息をついた。
「……こっちに来たら、俺たちみんなが君の家族だよ」
電話を切り、麻奈美はそっと壁に身を預けた。
そのとき、正面から不意に声が飛んでくる。
「麻奈美?」
顔を上げると、恭弥が千春に寄り添い、慎重に支えながら歩いてくるところだった。
千春はすっかり胸元へ身を預けている。
恭弥は麻奈美の青白い顔を見つめ、痛ましげな色を浮かべた。
「こんなところで何をしてるんだ?」
麻奈美は深く息を吸い込み、喉の奥に広がる苦みを押し殺す。
「……生理痛がひどくて、診てもらいに来たの。あなたは?今夜は残業じゃなかったの?」
澄んだ瞳で見据えられ、恭弥はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「千春の具合が悪くなってな、病院まで付き添ってきたんだ。うちのアンバサダーだし、立場上、面倒を見るのは当然だろ」
麻奈美は心の中で冷たい笑いが込み上げる。
その面倒を見るというのは、ベッドの上まで含むのだろうか。
千春がわざとらしげに微笑みながら口を挟んできた。
「こちらが奥さんですか?私と目がそっくりですね」
「奥さん」という言葉に、あからさまな棘を込めている。
胸に鋭い痛みが走ったが、麻奈美は何も言わなかった。
恭弥の視線が麻奈美から離れないのを見て取ると、千春は腕にすがりつき、か弱い声を出す。
「恭弥さん、急に気分が悪くなってきちゃった……家まで送ってくれる?」
千春の辛そうな様子に、恭弥は迷うように視線を向けた。
「千春の具合が良くないみたいで、俺、先に……」
「行っていいわよ」
言葉を遮った。
どちらが優先されるかなど、最初から分かっている。
「大したことないから。私はあとでタクシーで帰るわ」
恭弥はあからさまに安堵の息を漏らした。
だが、あまりに落ち着き払った態度に、どこか胸騒ぎを覚えているようでもあった。
家に帰ったら埋め合わせをすればいい――
そう自分に言い聞かせるようにして、千春の肩を抱きかかえて去っていく。
遠ざかる2人の背中を見送りながら、麻奈美は自嘲の笑みを浮かべた。
タクシーで帰宅すると、家中のいたるところにあるペアの品々が目に刺さった。
壁に飾られた仲睦まじいツーショット写真、テーブルの上に並ぶお揃いのマグカップ、ソファに置かれた彼の手編みのブランケット。
かつては温もりに満ちていた記憶の数々が、今では鋭い刃となって心を抉ってくる。
麻奈美は息を整え、思い出の品を1つずつ大きな段ボールへと放り込んでいった。
壁から外した写真立ての中では、2人が屈託のない笑みを浮かべている。目頭を熱くしながら、写真の中の夫の輪郭を指先でなぞった。
結婚して3日目、恭弥に連れられて撮りに行ったものだ。
あの頃の彼は、よく麻奈美の瞳を食い入るように見つめていた。
「麻奈美のこの瞳は、いくら見ていても見飽きないよ」
今なら分かる。
自分の瞳を通して、千春の姿を追いかけていただけだった。
胸を締めつける痛みを振り払うように、写真を段ボールへ投げ入れた。
ソファに腰を下ろし、これまでの日々に思いを馳せながら、過去の温もりを無理やり消し去ろうとする。
結婚当初の自分はぎこちなく、恥ずかしがってばかりで、まるで夢の中にいるようだった。
恭弥は仕事の予定を放り出して買い物に付き合い、気に入った小物を買い集めてくれた。
居心地よく過ごせるようにと家の中を整え、この家の女主人として馴染めるよう手を尽くしてくれた。
付き合っていた期間の穴埋めだと、映画に連れて行ってくれたり、ジェットコースターに乗ったり、何枚も写真を撮ったりした。
あんなにも幸せだったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
答えは見つからず、平らになった下腹部に手を当てると、自然と涙が溢れ出た。
それらの品々をまとめ終える頃には、3時間以上が過ぎていた。
さらにクローゼットの奥から、大きな箱を引きずり出す。
中には、この3年間で恭弥から贈られたプレゼントが詰まっていた。
誕生日には、宝物のように大切に慈しむと誓って贈られたピンクダイヤモンドのティアラ。
バレンタインには、出会えなかった23年分を埋めると書かれた手紙と、999本のジュリエットローズ。
結婚記念日には、永遠に愛し守り抜くと自らデザインして仕立てたダイヤの指輪。
麻奈美自身は贅沢品に執着などなかったが、恭弥はいつも抱きしめてこう言っていた。
「俺の麻奈美には、一番いいものだけを手にしていてほしいんだ」
涙を拭い、すべての荷物をリビングへと運び出す。
暖炉に火をつけ、かつての思い出が目の前で灰へと変わっていくのを静かに見つめた。
勢いを増していく炎の揺らめきを眺め、ぼんやりと立ち尽くしていたとき、恭弥が帰宅した。
暖炉の中で白く崩れる灰を見て怪訝そうにした恭弥は、燃え残っていたブランケットの切れ端に目を留めた。
そこには、2人のイニシャルが刺繍されている。
【MK&KM】
恭弥は熱気も構わず駆け寄り、素手で残骸を引っ張り出した。
「麻奈美……お前、これ……何をしてるんだ?」
見たこともないほどの激しい動揺を浮かべ、麻奈美の手を掴む。
――本当によくできた演技だね。
麻奈美は何気ない仕草で手を振りほどき、小さく微笑んだ。
「なんでもないわ。ずいぶん古くなってきたから、そろそろ新しいのに買い替えようと思っただけ」
恭弥の顔に複雑な色が交錯し、何を考えているのか測りかねる。
やがて、重いため息を吐き出した。
「要らないなら別にいいけどさ……また今度、新しいのを買ってやるから」
「ええ」
冷淡に一言だけ返すと、踵を返して部屋の奥へと向かった。
去っていく背中を見送りながら、恭弥の胸の奥がきりきりと痛む。何かが手から遠ざかっていくような、得体の知れない焦燥感が募る。
「麻奈美!これ、見てくれよ」
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