秘密婚はご免!堂々と愛する先輩こそ本命第3話
この話は約2733字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
振り返ると、そこにあったのは半月ほど前に何気なく口にした店のスイーツだった。
千春が帰国したあの日から、恭弥は10日間も家に寄りつかなかった。
男は期待に満ちた眼差しで見つめてくる。
以前の麻奈美なら、喜んで胸に飛びつき感謝を伝えていただろう。
だが今、箱に収まる繊細な洋菓子を見つめても、浮かぶのは乾いた笑みだけだった。
「最近、体型を気にしてるの。甘いものは控えてるから」
あのとき欲しかったものも、時が過ぎればどうでもよくなる。
この男と同じだ。
3年という月日が経ち、もう愛し続ける気力すら残っていなかった。
恭弥の表情にかすかな落胆がよぎったものの、麻奈美を抱き上げ、リビングの奥へと運んだ。
「俺にとっては、どんな姿のお前だって一番綺麗だよ」
夜、ベッドに横たわり、お腹に手を当てて物思いに耽っていると、背後から恭弥が抱き寄せてきた。
首筋に顔を埋めようとした瞬間、麻奈美は拒絶するようにその体を押し戻す。
恭弥は居心地悪そうに手を彷徨わせ、焦りを滲ませた声を漏らした。
「この10日間構えなかったことを怒ってるのか?会社がどうしても忙しくて、俺……」
この期に及んでも、平然と嘘を重ねる。
麻奈美は言葉を遮った。
「忙しいのは分かってる。怒ってなんかいないわ」
恭弥の顔に安堵の笑みが戻る。
「やっぱり、お前は聞き分けが良くて優しいな」
すぐには返答せず、少しの間を置いてから静かに告げた。
「ねえ……もし本当に好きな人ができたなら、私、身を引くわ。離婚してもいい」
望み通りにしてやるつもりだった。
恭弥の顔色が一変し、苛立ちを隠さずに眉をひそめる。
「千春の面倒を見たことをまだ根に持ってるのか?言ったはずだろ、あいつはうちのアンバサダーだから面倒を見てるだけだ。変な勘繰りはやめろよ。
千春を悪く言うな。あいつのことは妹としか思ってないんだから」
それだけ吐き捨てると、恭弥は寝室を出て行ってしまった。
なぜ麻奈美が唐突に離婚を口にしたのか、理解できない。
千春が帰国し、ただ若かりし頃の心残りを埋めたかっただけに過ぎない。
部屋に取り残された麻奈美の頬を、止めどなく涙が伝い落ちる。
まだシラを切り通すつもりなのだ。
ただの妹だと本気で言うなら、なぜ我が子を千春に差し出そうとするのか。
最初から正直に打ち明けてくれていたなら、縋り付いて邪魔をする気など毛頭なかった。
*
一睡もできぬまま夜を明かし、麻奈美は翌朝一番で弁護士事務所を訪れた。
「村瀬恭弥とは事実上の秘密婚です。一切の財産分与を放棄しますので、財産放棄の合意書を作成していただけますか。その後の離婚手続きに関する一切の対応も、先生に一任します」
面談を終えた直後、スマートフォンが激しく震え始めた。
千春からのメッセージだった。
【お姉ちゃんって呼ぶべき?それとも村瀬の奥さんかしら?
あんたの母親もうちの母親に敵わなかったんだから、あんたが私の相手になるわけないでしょ。空気を読んで、さっさとその座を譲ったらどう?
恭弥さんが愛してるのは私よ。あんたも分かってるんでしょうけど、ただの身代わりに過ぎないんだから】
麻奈美は瞳を閉じた。
忌まわしい過去の記憶が胸をかすめる。
誰も知らないが、千春とは異母姉妹だった。
かつて父の川辺公彦(かわべ くにひこ)と母の菅野君江(かんの きみえ)は、田舎で慎ましい夫婦生活を送っていた。
君江は夫を支えて苦労を重ね、すっかり体を壊してしまう。
やがて公彦は事業で成功を収め、社長へと上り詰めた。
しかし麻奈美が生まれた翌年、父は外から生まれたばかりの娘――千春を抱いて帰ってきた。
母は取り乱すこともなく、翌日には離婚届を突きつけ、麻奈美を連れて田舎へ戻った。
母と2人で過ごしたあの田舎暮らしこそが、人生で最も満ち足りた時間だった。
その後、君江は過労が祟って胃がんを患った。
麻奈美は父に母の治療費を用立ててほしいと泣きついた。
だが公彦は一度も見舞いに訪れることすらなく、千春を連れて華やかなパーティーに顔を出し、誰もが羨む令嬢として持て囃していた。
君江が危篤に陥った日、麻奈美は床に膝をつき、必死に医師へ母を助けてほしいと懇願した。
その場を偶然通りかかった恭弥が、麻奈美の瞳に目を留め、何かに導かれるように手を差し伸べた。
母を特別病室へと移し、一流の医療体制を整えてくれた。
3か月後に君江が息を引き取った際も、恭弥がすべての葬儀を取り仕切ってくれた。
麻奈美は心から恩義を感じていた。
祖父から結婚を急かされていた恭弥に求婚されたとき、迷わず頷いたのもそのためだった。
結婚の翌日、麻奈美は母の墓前で、もう心配いらないと伝えた。
人生で最高の人に出会えたのだと。
まさか、愛していたのは自分ではなかったなど、思いもしなかった。
止まらない通知の振動が、意識を引き戻した。
再び千春からのメッセージだ。
そこにはトーク履歴のスクリーンショットと、1本の動画が添付されていた。
写真の中の千春はレースの猫耳をつけ、白い素肌を惜しげもなく晒しながら、蕩けた瞳でレンズを見つめている。
【恭弥さん、子猫ちゃんがご主人様に会いたがってるよ。来てくれたら、好きにしていいから】
その下には、恭弥の黒いアイコンから素っ気ない返信が並んでいた。
【20分で行く】
動画を開くと、千春が恭弥の腰にしがみつき、男の低いうめき声と女の甘い嬌声が入り混じっていた。
麻奈美は画面を伏せ、瞳を閉じた。
胸を貫く痛みを必死に抑え込む。
これまでに散々見せつけられてきたのだから、もう感覚も麻痺したはずだった。
それなのに、止めようのない痛みが全身を駆け巡る。
その夜も恭弥は帰ってこなかった。
だが千春から送られてくるメッセージによって、行動は筒抜けだった。
玄関先からリビング、寝室に至るまで、脱ぎ散らかされた衣服の写真。
普段、麻奈美に向ける態度とはまるで別人のようだった。
自分に対しては常に紳士的で自制を保っていた男が、千春の前では剥き出しの欲望を解放している。
千春は、30個もの使い切った避妊具と、全身に刻まれたキスマークの写真を送りつけてきた。
【恭弥さんって、あんたにもこんなことしてくれた?ベッドの上じゃマグロみたいで、全然満たされないって言ってたわよ】
麻奈美は一切返信せず、無言でトーク履歴を保存した。
ベッドに入り、浅い眠りを彷徨っていた麻奈美は、甲高い着信音に叩き起こされた。
電話口から、恭弥の切羽詰まった声が響く。
「麻奈美、頼むから胃薬を1箱持ってきてくれ。ヴェリタスのVIPルームだ」
持病の胃痛がぶり返したのだと思い、麻奈美は上着を羽織ってタクシーに飛び乗った。
個室の扉に手をかける直前、中から品のない嘲笑が漏れ聞こえてきた。
「おい恭弥、お前のあの言いなり女、本当に来ると思うか?」
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