私を見捨てた男は、仮面をつけてもう一度愛を取り戻す第3話
この話は約2340字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
真白は踵を返した。
これ以上、目に刺さる光景を見たくなかった。
あと一秒でもここにいれば、どうにか保っている冷静さが粉々に砕けてしまいそうだった。
迅は傷ついた体を無理に動かし、真白へ手を伸ばした。せめて服の裾だけでも掴もうとする。
「まし……」
名前を最後まで呼ぶこともできず、迅は完全に意識を失った。
「迅!」
背後から、泣き出しそうな佳純の叫びが聞こえた。
「どうしよう。こんなに血が出てる……私じゃ支えられない……」
真白は目を閉じた。爪が手のひらへ深く食い込む。
とうとう足を止めた彼女は、振り返らないままスマホを取り出した。
「黒砂海岸の崖際です。救急車を一台お願いします。
今すぐに」
病院には、鼻を突く消毒薬の臭いが満ちていた。
治療費を払い終えた真白は、ガラス越しに病室を見ていた。
佳純が濡らしたタオルで、迅の顔に乾いてこびりついた血を少しずつ拭っている。
やがて目を覚ました迅は、真っ先に佳純の涙へ手を伸ばした。
その指で涙を拭い、ふと扉の外に立つ真白に気づいた瞬間、動きが止まった。
真白は病室へ入った。
佳純を見ようともせず、迅の容体を尋ねようともしない。ただ支払いの明細を、無造作にベッド脇の台へ置いた。
「全部、払っておいた」
真白が立ち去ろうとすると、迅は苦痛に顔を歪めながら起き上がった。
「真白!どこへ行くんだ。話を聞いてくれ……」
「動かないでください!傷口がまた開きます!」
医師の鋭い声が飛んだ。
「必要ないわ。迅には水瀬さんがついているもの。ゆっくり治して」
真白は伸びてきた手を身をかわして避けた。
誰もいない冷たい廊下に、彼女のヒールの音だけが虚ろに響き、やがて遠ざかっていった。
夜風には冷たさが混じり、ほどけた真白の髪を揺らした。
気がつくと彼女は、羅生街の古い路地の入り口に立っていた。
ラーメン屋の女将が真白を見つけ、店から明るく顔を出した。
「葉山さん、いらっしゃい!今日は一人なの?獅堂さんは?いつもどおり、チャーシュー麺を二つでいいかい?」
真白は、そこでようやく思い出した。
今日は10月15日だ。
16年前の今日、彼女はこの路地で迅と出会った。
それから毎年この日になると、二人でここへ来て一杯のチャーシュー麺を食べ、長い通りを歩いた。
その時間だけは、どこにでもいる恋人同士のように。
真白の24年の人生、その3分の2を迅が占めている。
それなのに、よりによってこの日にすべてへ終止符を打つことになるとは思わなかった。
喉へ込み上げたものを押し戻し、真白は女将へ笑ってみせた。
「一つだけでいいわ」
チャーシュー麺が運ばれ、湯気もまだ消えないうちに、店の入り口へ人影が現れた。
佳純だった。
「葉山さんもいらしたんですね」
佳純の手には、割烹「松月」の持ち帰り袋が提げられていた。上品で高価そうな包みは、この古びたラーメン屋からひどく浮いて見えた。
「迅が、病院の食事はおいしくないって言うので、海鮮雑炊を買ってきたんです」
真白は顔を上げず、箸で静かにスープをかき混ぜた。
佳純は数歩近づき、真白のどんぶりへ目を落とした。
「迅、私をこのお店に連れてきてくれたことがあるんです。迅はおいしいって言ってたけど、私が不衛生だって言ってから、一度も食べなくなりました。
同じものばかり食べていると、別の味が欲しくなるとも言っていました」
真白はようやく顔を上げた。唇には冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「『松月』の海鮮雑炊は確かにおいしいですね。でも、迅は胃が弱いんです。医師からも、魚介は控えるように言われています。
水瀬さんが付き添うのなら、そういう細かなことにも気を配ったほうがいいですよ」
佳純の笑みが、わずかに強張った。
真白は箸を置いた。
「このチャーシュー麺と同じです。十数年も食べ続けてきた味は、目新しい刺激だけで代わりが務まるものではありません。
海鮮雑炊は温かいうちに召し上がってください。もう戻ったほうがいいですよ。ただ、途中で何か胃に優しいものも買うことをお勧めします。だって――」
真白は微笑んだ。
「本当に迅の口に合うものでなければ、意味がありませんから」
佳純は何も言い返せず、目を赤くした。持ち帰り袋を強く握りしめると、腹を立てたように店を飛び出していった。
真白は目を伏せた。
目の前のチャーシュー麺は、もうすっかり冷めている。食欲は欠片も残っていなかった。
代金を器の下へ挟み、席を立つ。
外では、夜がさらに深くなっていた。
ここから、真白が暮らす白金邸までは数区画しか離れていない。
無機質な光を反射する摩天楼のガラス窓と、塗装の剥げた古い雑居ビルが向かい合うこの一帯は、湊都の新旧が入り混じる縮図だった。
かつて真白が白金邸をどうしても手に入れようとしたのは、大きな窓の前に立てば、二人がのし上がる出発点となった街を遠くに望めたからだ。
それは錨のように、彼女を来た道へつなぎ留めてくれた。
どれほど高い場所へ上っても、始まりを忘れないために。
路地は静まり返り、石畳を打つハイヒールの音だけが響いていた。
道沿いの古い木から、黄ばんだ枯れ葉が一枚舞い落ちた。真白の肩をかすめ、音もなく地面へ落ちる。
何年も前にも、こんな夜があった。
真白と迅は一つのシマを手に入れたばかりで、全身傷だらけになりながら、興奮に目を輝かせていた。
この木の下で、迅は真白を背負い、一歩ずつ前へ歩いた。
――迅、いつか大きな窓のある家に住みたい。
迅は息を切らしていた。それでも笑い声は、どこまでも明るかった。
――分かった。買ってやるよ。湊都を全部見渡せる家をな!
場所は同じでも、人の心だけが変わってしまった。
遠い記憶に心を奪われていたとき、脇へ分かれる暗い路地から、女の怯えた呻き声と男たちの下卑たからかい声が聞こえた。
「助けて……放して……」
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