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私を見捨てた男は、仮面をつけてもう一度愛を取り戻す第1話

この話は約4317字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

葉山真白(はやま ましろ)と獅堂迅(しどう じん)は、羅生街の血だまりから命懸けで這い上がり、今では権力も富も分かち合う恋人となっていた。

裏社会の頂点を極めた頃、迅は真白のため、大勢の仲間が見守る前で裏稼業から足を洗い、彼女にまっとうで平穏な未来を与えると誓った。

そして半月前、蒼海湾の話題を独占するほど盛大なプロポーズパーティーが開かれた。どん底から始まり、頂点まで上り詰めた二人の愛は、今度こそ実を結ぶのだと誰もが信じていた。

真白自身も、そう信じていた。

親友の瀬戸麻衣(せと まい)から電話がかかってくるまでは。

「真白!大丈夫?怪我してない?」

真白は眉をひそめた。

「今、着いたところよ。どうかしたの?」

「あんたじゃないの……?」

麻衣はためらいがちに声を落とした。

「今夜、迅が大勢を引き連れて裏通りをめちゃくちゃにしたのよ。なんでも、一人の女のために、足を洗ったはずの裏社会に戻ったって噂。てっきりあんたの身に何かあって、それであいつが理性を失って暴れてるんだと思ってたのに」

スマホを握る真白の指先が冷たくなる。

一人の女のために?

* * *

「分かった」

真白の声は平静だった。だが、「見に行ってくる」と告げたその声だけが、わずかに頼りなく揺れていた。

裏通りには血の臭いが満ちていた。砕けたネオン管が路上に散らばり、その光が、折り重なるように倒れて呻く男たちを照らしている。

人垣の中央に、黒ずくめの迅が立っていた。

彼の意識は、正面で男にきつく押さえつけられている白いワンピース姿の女――水瀬佳純(みなせ かすみ)ただ一人に注がれていた。

真白の足が止まった。

迅が佳純をどれほど案じているのか。その目を見れば、嫌でも分かった。

「獅堂!」

鬼頭剛(きとう つよし)が、血走った目で怒鳴った。

「てめえが嫁にするのは葉山じゃなかったのか!それが今度は、この女のために俺のシマを潰しやがって!

何だ?葉山みたいな使い古しの女には、もう飽きたって――」

その侮辱が、迅の逆鱗に触れた。

乾いた銃声が響き、剛の膝から血が弾ける。絶叫とともに、巨体がその場へ崩れ落ちた。

真白は暗がりに立ったまま、迅が引き金を引く姿を黙って見つめていた。

激昂した剛はナイフを抜き、すぐさま佳純の首筋へ突きつけた。刃を押し当てられた皮膚から、赤い雫が滲む。

「助けてえなら、助けさせてやる。獅堂――俺の前に跪け!」

紛れもない侮辱だった。銃を握る迅の手の甲に、太い血管が浮き上がる。

だが、怯えた佳純の目から涙が一粒こぼれた瞬間、真白ははっきりと見た。

迅がほんの一瞬、膝を折ろうとしたのを。

真白は目を閉じた。

7年前の羅生街の入り口へ引き戻されたようだった。

敵方の男は真白を地面に踏みつけ、迅に向かって獰猛な笑みを浮かべていた。

――女を返してほしけりゃ、俺の股の下をくぐれ!

あのとき真白は、自分が死んだほうがいいとさえ思った。自分のために迅が辱められる姿だけは、どうしても見たくなかった。

十数年、二人は肩を並べて血の雨をくぐり抜けてきた。その迅が、これまで一度だって誰かに頭を下げたことがあっただろうか。

そんな男が今、別の女のために、ここまで尊厳を踏みにじられようとしている。

結局、真白は動いた。

片腕で剛を払いのけると、佳純の体を軽々と迅のほうへ押しやった。

迅は反射的に佳純を抱き留めた。真白に何か言おうと口を開いたものの、腕の中で佳純が気を失う。

彼が言い残したのは、たったひと言だった。

「ここは任せる」

真白はその場に立ち尽くし、迅の背中が街角の向こうへ消えるのを見届けた。それから車に乗り、あとを追った。

迅が向かったのは、見覚えのある葵区の古い雑居ビルだった。

真白の心が、ゆっくりと沈んでいく。

まだ二人が何者でもなく、最も貧しかった頃に暮らしていた場所だ。

夏は蒸し風呂のように暑く、冬は隙間風が容赦なく吹き込んだ。それでも二人は、そこで10年を過ごした。

成功を手にした迅が真っ先にしたのは、そのビルを買い取ることだった。

「ここには、お前が俺を愛してくれた痕跡が残ってる。誰にも触らせたくない」彼は、そう言っていた。

なのに今、その場所へ別の女を連れてきた。

スマホの画面が点灯した。部下から届いた報告は、短く、容赦がなかった。

【3か月前、雨の夜にボスの車が家出中の水瀬佳純さんと接触。水瀬さんは事故で記憶を失い、ボスが葵区の古い雑居ビルへ保護。以後、ボスは週に少なくとも3晩、同所に宿泊】

車内には、迅特有の匂いがまだ残っていた。

かつては、それだけで心から安らげた。自分が帰るべき場所の匂いだった。

今は息を吸うたび、その匂いが胸の奥深くに刃のように突き刺さる。

このところ迅は忙しいと口実を作って、真白が戻る日でさえ迎えに来なかった。

けれど、本当は――

真白はタバコに火をつけた。

暗闇の中で明滅する赤い火は、遠い昔、二人であの雑居ビルの粗末な板張りのベッドに身を寄せ、一杯の屋台のチャーシュー麺を分け合ったとき、窓の外で途切れ途切れに光っていたネオン看板によく似ていた。

あの頃は、本当に貧しかった。互い以外、何ひとつ持っていなかった。

とりわけ忘れられないのは、ある冬の夜だ。壁の隙間から忍び込む冷気が刃のように肌を刺し、ありったけの服を体に被せても、歯の震えが止まらなかった。

迅は真白を腕の中にすっぽりと包み込み、自分の体温を分け与えた。彼女の頭に顎を乗せ、低い声で言った。

「真白、もう少しだけ耐えてくれ。俺たちが這い上がったら、二度とこんな苦労はさせない」

真白は、その言葉を信じた。

だから迅とともに羅生街から湊都の中心まで血路を切り開いた。名もない下っ端だった彼が、名を聞いただけで誰もが震え上がる裏社会の支配者になるまで、ずっとそばにいた。

迅を庇って背中に負った傷は、今でも雨の降る前は鈍く疼く。

燃え尽きかけたタバコが指先を焦がし、真白はようやく我に返った。

胸の底から、じわじわと苦い痛みがせり上がる。

二人で15年も歩んできた血まみれの道が、あとから現れた女の軽い涙一粒に負けたのだ。

やがて空が白み始めた。

真白の目に残っていた最後の揺らぎも、朝の光の中で静かに消えた。

エンジンをかけ、立ち去ろうとしたとき、階段口に迅が姿を見せた。

「真白」

迅は車の窓を軽く叩いた。

「ずっと待ってたのか?昨日は急なことだったし、佳純もひどく怯えていた。だから、ここで休ませるしかなかったんだ。

彼女は何も知らない普通の女の子だ。俺のせいで巻き込まれたんだから、放っておけない」

濃い色の窓ガラスが、真白の表情をすべて隠してくれた。

彼女はアクセルを踏み込んだ。

車は迅を残し、朝の街を一気に走り去った。

湊都のメディアは、すぐさま騒ぎを嗅ぎつけた。

【湊都激震!裏社会の王・獅堂、新たな恋人のために裏社会へ戻る!女王・葉山、傷心の決別か】

【事故で出会った記憶喪失の女子学生・水瀬佳純――二人の王が築いた15年の愛を揺るがす】

二人をめぐる憶測は日ごとに過熱したが、当事者である真白に弁明する気はなかった。

彼女は自ら財産分割協議書を作り、二人が築いた事業も資産も、すべて半分ずつに分けることにした。未練など微塵も感じさせない、いっそ潔いほどの決断だった。

真白が迅のオフィスへ向かうと、中から聞こえた話し声が、その足を止めた。

「迅。女子学生一人のためにあそこまでやったら、真白の立場がないだろ。いい加減、機嫌を取りに行ったらどうだ?あんな女、湊都中を探したって二人といないぞ」

声の主は、二人と長年苦楽をともにしてきた瀬名栄介(せな えいすけ)だった。

「分かってる。長いこと一緒に修羅場をくぐってきた。真白はもう、俺の命の一部だ」

迅の声には、かすかな疲れが滲んでいた。

真白の胸が、わずかに締めつけられる。

だが、続く言葉が彼女を氷の底へ突き落とした。

「でもな、栄介。真白への気持ちは、とっくに昔とは違ってる」

迅は一度、言葉を切った。

「あいつは腹の底が読めないし、やり方も容赦がない。俺でさえ、ぞっとすることがある。

佳純は違う。何にも染まっていない、まっさらな紙みたいな女だ。あいつを見てると、俺もまだ生きた人間なんだと思える。人を殺すことしかできない機械じゃないってな」

協議書を握る真白の手が、小さく震えた。

ふいに、ずっと昔の記憶が蘇る。

誰かが迅の前で、こう言ったことがあった。「葉山さんは手段を選ばなさすぎる。獅堂さんには釣り合わないんじゃないですか」

あのとき迅は、何と答えたのだったか。

迅は真白の腰を抱き、皆の前で不敵に笑った。「俺だって善人じゃない。真白が何も知らない甘ちゃんだったら、そもそも惚れてねえよ。俺は、真白のこの容赦なさが好きなんだ。

似た者同士で、ちょうどいいだろ」

あの声は今も耳に残っている。けれど、すべては変わってしまった。

オフィスでは、栄介がなおも説得していた。

「遊びたいだけなら、外に囲っておけよ。これまでの女と同じだ。どうせ1か月もしないうちに飽きる」

真白の爪が手のひらへ食い込んだ。

迅は首を振った。

「違う。昨日、佳純が泣いた瞬間、剛の連中を全員切り刻んで犬に食わせてやりたいと思った。

こんな感情は、真白に対して一度も抱いたことがない。真白は強すぎる。俺がいなくても何でもできる。でも、佳純には俺しかいない」

栄介は深いため息をついた。

「お前たちは、利害も勢力も深く結びつきすぎてる。どれだけの連中が隙を狙ってると思ってるんだ。関係を切れば、何が起きるか分からないぞ」

「今は、少し意地になってるだけだ」

迅の声には、揺るぎない確信があった。

「あいつは俺から離れられない」

「……ふっ」

真白は、ごく小さく笑った。

顔を上げ、目尻に浮かんだものを無理やり引っ込めると、扉を押し開けた。

迅はすぐに立ち上がり、真白の手を取ろうと近づいた。

「真白、もう気は済んだか?まだ腹が立ってるなら、あのシマを取り返しに行こう。前から欲しがってただろ?」

真白の視線は迅を通り越し、デスクに広げられた新聞へ落ちた。

芸能面の一面には、あの夜、迅が水瀬佳純を壊れ物のように抱きかかえ、車へ乗せる写真が載っていた。

その左手の薬指で、プラチナの指輪がひどく眩しく光っている。

真白の指にも、同じ指輪がある。

半月前、迅はそれを彼女にはめながら言った。

――真白、俺の妻になるのは、お前だけだ。

何と滑稽な言葉だろう。

「迅。もともと財産は、半分ずつにするつもりだった」

真白は伸びてきた手を振りほどき、協議書を細かく引き裂いた。紙片を、無造作に宙へ放る。

「でも、私がそこまで悪辣な女だと言うのなら、その評判どおりになってあげる。

あなた名義のものは、何もかも私がもらうわ」

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