私を捨てた家族など、二度と振り返らない第3話
この話は約3086字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
一人でタクシーに乗り、近くの救急病院へ向かった。
当直の医師は、私の傷だらけの手のひらを見るなり険しい顔をした。
「傷口が深いですね。これは縫合処置が必要です」
彼は私の背後をちらりと見て、気遣うように言った。
「局所麻酔もしますし、破傷風のワクチンも打つので少し痛みますよ。……付き添いの方はいないんですか?」
私は込み上げてくる涙を必死に堪え、平坦な声を作って短く答えた。
「みんな、忙しいので」
家に着いたのは、夜の8時を回った頃だった。
玄関の前には、なぜか人だかりができていた。
校長先生、担任の先生、それにカメラを持った広報担当らしき人たちの姿まである。
私の姿を見つけるなり、お母さんがものすごい剣幕で近づいてきて、私の腕をガシッと掴んだ。
「ちょっと、今までどこをほっつき歩いてたのよ!
電話には出ないし、メッセージも無視して。こんなに大勢の人をお待たせして……!」
周囲に聞こえないよう、歯を食いしばって声を押し殺しながら咎め、彼女は私の手首を強く握りしめた。
そこはまさに、さっき縫ったばかりの手のひらのすぐ近く。
「痛っ……」
私が思わず顔をしかめて息を呑むと、お母さんはようやく私の手に巻かれた分厚い包帯に気がついた。
担任の先生が心配そうに歩み寄ってくる。
「結月さん、その手、どうしたんだい?」
私が口を開くより先に、お母さんが慌てて私の肩を抱き寄せた。
「あはは……ちょっと親子喧嘩しちゃいまして。うちの結月は昔から意地っ張りで困るんですけど、本当はとっても素直でいい子なんですよぉ」
肩に回された腕から、お母さんの愛用している高級香水の匂いがふわりと漂ってきた。
昔は、この匂いが大好きだった。
お母さんが杏奈を抱きしめるたび、私はすぐそばに立って、この匂いをこっそり胸いっぱいに吸い込んでいたのだ。
まるで自分も一緒にお母さんに抱きしめられているんだと、惨めな錯覚をするために。
でも今は、鼻腔を突くその香りに、吐き気すらを覚える。
私は無言のまま、お母さんの腕をそっと振り払った。
お母さんの見事な愛想笑いが、その瞬間にピキッと固まった。
気まずい空気を誤魔化すように、校長先生が咳払いをして、立派な目録の入った桐箱を差し出してきた。
「結月さん。本日は、学校および特別教育財団からの吉報をお持ちしました。
今回の全国統一試験において、君の成績はこの指定特区でトップテンに入るという、開校以来の素晴らしい快挙でした。
つきましては、財団より『最優秀特待生』として認定され、特別進学支援金として二百万円が給付されます」
担任の先生も誇らしげに頷く。
「君のスコアがずば抜けて高くてね。財団の方で特待生の認定手続きに少し時間がかかってしまい、通知が今日になってしまったんだ」
校長先生が笑顔で付け加える。
「本来なら学校で大々的に表彰式を行いたいところですが、上層部からあまり大袈裟にして君の負担にならないようにとお達しがありましてね。
こうして直接、認定書と支援金の目録をお渡しに伺った次第です」
お母さんは、目尻に深いシワを寄せて満面の笑みを作った。
「まぁ!うちの結月は昔から本当に手のかからない子でして。勉強のことで親が口出ししたことなんて、一度もないんですよ」
――ええ、確かにその通りだ。
私は今まで、彼らの手を煩わせたことなんて一度もない。
学校の三者面談だって、私はいつも一人で教師と向き合ってきた。
だって彼らは三人揃って、血の繋がらない杏奈の保護者として面談に出席していたのだから。
帝都大学を優秀な成績で卒業した蒼大にしてもそう。
私が勉強を教えてほしいと頼んでも、彼は冷たく言い放つだけだった。
「スマホ持ってるだろ?解き方くらい自分でネットで検索しろよ」
そのくせ、杏奈が相手となると、彼はどれほど基礎的な問題でも嫌な顔一つせず、時間を忘れて何度も何度も手取り足取り教えていた。
ある日、どうしても腑に落ちなくて聞いたことがある。
「どうして、私には教えてくれないの?」
すると蒼大は、さも当然だと言わんばかりに胸を張って答えたのだ。
「お前はもう十分に成績がいいだろ。今さら俺が教えたところで、どうせ上がる点数なんてたかが知れてる。
それに比べて杏奈はまだ基礎ができてない。俺が少し見てやるだけで、あの子は一気に伸びるんだ。教えがいがあるだろ」
だから、自分の労力や時間を割くなら、杏奈の方が価値がある。
あの身勝手で理不尽な言葉を突きつけられたあの日から、私はもう、この家族に何かを求めることを完全に諦めたのだった。
……いいや、本当はまだ、ほんの少しだけ期待していたのかもしれない。
もし私がもっと優秀になれば。 蒼大のように、誰もが認める超名門の帝都大学に合格しさえすれば、両親ももう一度、私の方を向いてくれるんじゃないかって。
そんな愚かで無邪気な幻想を抱いていた。
けれど、全国統一試験の結果が出て、私が指定特区でトップテン入りを果たし、国内のトップ大学から特待生枠のオファーが学校を通じて殺到した日。
両親は、どこか他人事のようにこう言っただけだった。
「よく頑張ったわね。進学先は、自分の行きたいところを勝手に選びなさい」
褒め言葉は、たったそれだけ。 頭を撫でてくれることも、一緒に喜んでくれることもなかった。
その一方で、彼らは杏奈の成績――中堅大学のボーダーラインになんとか引っかかる程度の点数――については、なんと三日三晩も徹夜して進路指導の資料を読み漁っていたのだ。
彼女が少しでも有利な条件で入学できるよう、ありとあらゆるルートを血眼になって探していた。
「結月さん」
担任の先生の声で、私はハッと我れに返った。
先生は、重みのある封筒を私の手のひらにしっかりと押し付けた。
「この中には、支援金が振り込まれる君の本人名義の通帳が入っている。
暗証番号の通知書も同封されているし、君しか触れないものだ。
二百万円は大金だからね。大学に行ったら、自分に投資して、決してひもじい思いなんてするんじゃないぞ」
「はい。ありがとうございます」
私が深くお辞儀をして、その封筒を自分のカバンにしまおうとした、その瞬間だった。
横から伸びてきたお母さんの手が、私の手首をガシッと掴んだ。
「先生、ご心配なく。この通帳は、親である私たちが責任を持って計画的に管理いたしますから」
お母さんは、まるで良妻賢母の鑑のような完璧な笑顔でそう言い放った。
やがて先生たちが帰宅の途につき、玄関のドアが閉まった途端。
お母さんの笑顔は嘘のように消え去り、凄みを利かせた声で私に手を差し出した。
「さあ、その通帳、こっちに渡しなさい」
「……」
「子供が大金なんて持っていたら、悪い大人に騙されるに決まってるじゃない。お母さんが安全な口座に移して、預かっておいてあげるから」
私はカバンの紐をギュッと握りしめ、一歩後ずさった。
「いらない。私のお金だから、自分で管理する」
私のささやかな反抗に、蒼大が眉間に深いシワを寄せて舌打ちをした。
「お前な、家族がたかが二百万ぽっちを横取りするとでも思ってんのか?相変わらずひねくれてんな」
お母さんも、あからさまに不機嫌な顔で声を荒らげた。
「あなたも杏奈ちゃんも、これから新生活でお金がかかるのよ!
私がこの家のお金を一括で管理して、二人に一番適切な形で分配してあげるって言ってるのに、何が不満なの!」
――適切な分配。
その白々しい言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、ピンと張り詰めていた何かが音を立てて千切れた。
私は、ソファでオロオロしている杏奈を指差した。
「西の港湾都市に買った、あの新築の高級マンション。……あれも『適切な分配』なの?」
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