私の鼓動が止まるとき第1話
この話は約2592字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
私は灯里(ともり)、お母さんに連れられて、心理検査を受けに行った。
質問票に記入していて、私が「よく悲しい気持ちになる」にチェックを入れた途端、お母さんは手を伸ばし、すぐにチェックを消した。
「何を悲しむことがあるの?家で不自由なんてさせてないでしょう?」
私が「人と話すのが怖い」を選ぶと、お母さんはまた眉をひそめた。
「小さい頃はあんなに明るかったじゃない。適当なことを書かないで」
私は言い返さなかった。
お母さんが悲しくないと言うなら、私は「まったくない」に直した。
お母さんがよく眠れていると言うなら、私は「よく眠れない」を消した。
1枚の質問票を書き終える頃には、ほとんどすべての答えをお母さんの望むとおりに選び直していた。
お母さんはそれを二度見返し、満足そうにうなずいた。
「そう、それでいいの。適当なことを書いちゃ駄目でしょう?もし間違った結果が出て、病気でもないのに病気だと判定されたらどうするの?」
結局、検査結果は「正常範囲」だった。
お母さんはようやくほっとした。
帰り道、私はずっと袖口の下に隠れた傷痕をなぞっていた。
鼓動だけがやけにはっきり聞こえるのに、目の前の世界はぼやけ、遠ざかっていった。
最後には、ただ真っ白な空白だけが残った。音もなく、何もなかった。
* * *
「だから、何ともないって言ったでしょ。あんたのことは、医者よりお母さんのほうがよく分かってるわよ。まったく、無駄足だったわ」
帰りの車で、お母さんは検査結果を撮影し、親族のグループLINEに送った。
わざわざ【判定:正常範囲】という部分を丸で囲んでいた。
【今日、検査に連れていったけど、何ともなかったわ。灯里が勝手に思い込んでいただけみたい】
送信した途端、親戚たちから次々と返信が来た。
叔母さんからは【うつ病のはずがないって、前から言ってたでしょ。こんなに恵まれた家なのに、何がつらくてうつになるの?】と届いた。
叔父さんは【今の子はスマホばかり見て、覚えた言葉をすぐ自分に当てはめるんだ】と送ってきた。
最後に、お父さんから返信が来た。
【何ともなくてよかった。もう騒ぐな。お母さんがどれだけ大変な思いで世話をしているか、少しは考えなさい】
お母さんは満足そうにスマホを置いた。
「ほら、みんな何ともないって言ってるでしょ。あんたが少しぐずっただけなのに、お母さんは朝早く起きて付き添ったのよ。
うつだなんて。事情を知らない人が聞いたら、お母さんがあんたを虐待しているみたいじゃない」
私は画面を見つめたまま、うなずいた。
「うん。私は何ともない」
お母さんは少し驚いた。私がこんなに早く認めるとは思っていなかったのだろう。
私はうつむいた。
助けを求めるたび、お母さんはいつも私より先に取り乱した。
「お母さんだって、自分がうつだなんて言えないのよ。あんたよりずっとつらいんだから。あんたのために朝から晩まで勉強の世話をして、栄養を考えた食事をあれこれ作って、こんなに心を砕いてきたのに。それでも、お母さんの世話の仕方が悪かったっていうの?」
今回病院へ来たのも、お母さんが一晩中泣いて訴えた末、意地になって決めたことだった。
「分かった。病院に行きましょう。お母さんのせいで、あんたがどうなったのか見てやるわ」
今度は、もう言い返せなかった。
この日から、私はすっかり普通になった。
朝はお母さんに起こされなくても、6時30分ちょうどに起きた。
お母さんが作った朝食を、残さず食べた。
吐き気がしても、最後のひと口まで飲み込んだ。
学校へ行く前、お母さんは私のバッグとスマホを確認した。
私はそばに立って待ち、どうして私のものを勝手に調べるのかとは、もう聞かなかった。
メモアプリに書きためていた暗い言葉を消されても、私は止めなかった。
「こういうことは、書けば書くほど大げさになるの」
お母さんはスマホを返した。
「これからは、楽しいことをもっと書きなさい」
授業中、私はもう机に伏せなかった。
先生に当てられれば、立って答えた。
隣の席の子に最近はよくなったのかと聞かれ、私はお母さんの口調をまね、笑顔で答えた。
「もともと何ともなかったの。少し前は、考えすぎていただけ」
放課後に帰宅すると、自分からお母さんを手伝って野菜の下ごしらえをし、床を拭き、洗濯物を干した。
叔母さんと電話で話すお母さんの声は、すっかり明るくなっていた。
「一度検査を受けたかいがあったわ。この子もやっと分かったみたい。
前は毎日、暗い顔をして、家族みんなが自分に借りでもあるみたいだったけど、病気じゃないと分かったら元気になったの」
電話の向こうで、叔母さんが笑った。
「だから言ったでしょ。子どもにそんなに悩みがあるはずないって」
お母さんが振り返って私を見た。
私はしゃがみ込み、お母さんの足元にある汚れを拭いていた。
お母さんは満足そうに言った。
「やっぱり、逃げても何も解決しないって分からせないとね」
私はうつむいたまま、拭き続けた。
汚れはとっくに消えていた。
それでも、同じ場所を何度も拭き続けた。
夜10時、お母さんが私の部屋のドアを開けた。
私はもうベッドに横になっていた。制服はきちんと畳み、翌日提出する宿題は、バッグの一番上に入れてあった。
お母さんはようやく笑った。
「ほら、普通にしているほうがいいでしょう。
お母さんが前から口うるさくしてきたのも、あんたが道を踏み外さないようにするためよ。大人になれば、あんたのためだったと分かるわ」
私はお母さんを見た。
「ありがとう、お母さん」
お母さんは明かりを消した。ドアの外で、お父さんに音声メッセージを送った。
「安心して。本当にもう何ともないわ。今はとても言うことを聞くし、怖いことも言わなくなったから」
お父さんから「それなら、検査結果はどうして取っておくんだ?」と返ってきた。
「もちろん取っておくわ。また騒ぎだしたときのためよ」
足音が少しずつ遠ざかっていった。
私は目を開けたまま、机を見た。
デスクライトの下には、心理検査の結果のコピーが置かれていた。
【判定:正常範囲。抑うつ傾向は認められません。良好な家族間コミュニケーションを心がけてください】
私は長い間それを見つめてから、新しい日記帳を取り出した。
最初のページに、こう書いた。
【今日は時間どおりに起き、朝食を残さず食べた。授業中はぼんやりせず、放課後はお母さんを手伝って家事をした。
私は元気に過ごしている】
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)