私の誕生日に、彼は決まって別の女へ手紙を書く第3話
この話は約2043字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
私は、紗妃が何度も自分のお腹を叩く姿を、ただ見つめていた。
目は真っ赤に充血し、もう私の知っている紗妃じゃなかった。背筋がぞっとするほど、別人のように見えた。
本当に私と悠斗の関係を壊したくなかったというなら、あんな夜中に悠斗へ電話なんてしなかったはずだ。
悠斗の声を聞く前から、「妊娠した」なんて口にするはずもなかった。まして翌日が、私たちの入籍日だと知っていたのに。
その瞬間、不意に強い吐き気が込み上げた。何度もえずいたのに、何も吐けなかった。
「美月、大丈夫?」
紗妃は慌てて私の背中をさすり、そのままキッチンへ駆けていった。
水と薬を持って戻ってくると、不安そうに私の顔をのぞき込んだ。
「ごめんね、美月。また胃が痛いの?顔色も悪いし、唇まで真っ白だよ……」
頭が割れそうに痛かった。
私はその手を勢いよく振り払った。コップは床に落ち、水が飛び散った。薬も辺りへ転がっていった。
私は乾いた笑みを浮かべた。
「むしろ、お礼を言わなきゃ。結婚なんていう地獄に飛び込む前に、止めてくれたんだから」
紗妃は傷ついたように目を見開いた。後ずさった拍子にバランスを崩し、そのまま後ろへ倒れた。ゴン、と鈍い音が響き、後頭部を棚の角へ強くぶつけた。
「紗妃!」
玄関のドアが勢いよく開き、悠斗が飛び込んできた。
悠斗の視線が私に向いたのは、一瞬だけだった。
怒りに満ちた視線を私へ向けると、そのまま紗妃を抱き上げた。
「悠斗、降ろして!私が勝手に転んだだけだから!大丈夫!それより美月が――」
「先に病院だ」
その声には、怒りと焦り、そして隠しきれない心配が滲んでいた。
そう言い切ると、悠斗は私を振り返ることさえなく、紗妃を抱えたまま駆け出していった。
静まり返った部屋には、割れたガラスと散らばった薬だけが残された。
ここにはもう私一人しかいなかった。
私はもう一度えずいた。そして鏡へ目を向けた。そこに映っていた私は、血の気を失った顔に、目だけが異様なほど赤く充血していた。
まるで幽霊みたいだった。無理に笑ってみると、余計に不気味だった。
私は夜が明けるまで、ただぼんやりと座り続けた。
朝日が差し込む頃、抜け殻のように立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
悠斗に関わるものは、もう何一つ残したくなかった。
高校時代、勉強を教えてくれたときのプリント。何気なく折ってくれた紙飛行機。使い切ってインクの出なくなったボールペン。入籍の日のために買ったワンピースとベール。
そして今日、入籍を済ませたあとに、サプライズで渡すつもりだった妊娠検査薬とエコー写真。全部まとめて、ゴミ袋へ放り込んだ。
スーツケースを2つ引いて、部屋を出た。
エレベーターに乗り、2階ほど下りた頃だった。
突然、身体がふっと浮いた。エレベーターが止まった。故障だった。
私は壁にもたれ、自嘲するように笑った。神社で見てもらった最高の日取りが、人生で最悪の1日になるなんて。
救助を待つあいだも、胃の痛みは容赦なく襲ってきた。下腹部まで締めつけられるように痛み始めた。やがて座っていることさえできなくなり、そのまま床へ崩れ落ちた。
揺れているのはエレベーターなのか。それとも私の意識が遠のいているのか。もう分からなかった。
そんなとき、スマホが鳴った。悠斗からだった。何度も画面を押し直し、ようやく通話がつながった。
「……美月」
言いにくそうに数秒黙り込んだあと、ようやく口を開いた。
「病院まで来てくれないか。紗妃が子どもを堕ろすって言って聞かないんだ。俺もここを離れられなくて……
子どもを産めなんて言うつもりじゃない。こんな形で授かったことが間違いだったってことくらい、俺も分かってる。でも、だからって今すぐ結論を出すのは違うと思う。せめて少し落ち着いてから――」
電波が悪いのか、声は途切れ途切れだった。それでも、言いたいことだけは伝わってきた。
どの言葉も矛盾だらけで、思わず笑ってしまった。
込み上げる吐き気を必死にこらえながら、私はゆっくりと口を開いた。
「悠斗。もし……私も今、妊娠していたら……どちらか1人しか選べないとしたら、あなたは、どっちを選ぶの?」
電話の向こうは静まり返った。数秒の沈黙のあと、ようやく悠斗が口を開いた。
「美月……そんな話に意味はない」
彼は答えなかった。その可能性すら、最初から考えようともしなかった。
「そんな偶然、あるわけ――」
そこで通信が一瞬途切れた。
「中の方!大丈夫ですか!?聞こえますか!」
そのとき、ようやく外から声が聞こえてきた。
「美月!?今の音、何だった!?」
私は、そのまま通話を切った。返事をしようとしても、声にならなかった。
どれほど時間が経ったのか分からなかった。ようやくエレベーターの扉がこじ開けられた。
管理人の慌てた声で、私はようやく気づいた。自分の足元に、赤い血がゆっくりと広がっていたことに。
管理人が救急車を呼んでくれた。救急隊員は家族に連絡を取ろうとしたが、私はスマホを握り締めたまま、小さく首を横に振った。
「……私には、家族はいません」
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