私の恋を賭けた彼は、すべてを失った第2話
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タワーマンションの最上階にある自宅に戻ると、私は納戸から茶色い革のスーツケースをふたつ引っ張り出した。
持っていくものは多くない。身分証明書と数日分の着替え、祖母から譲り受けた腕時計、それから父が亡くなる前に私の手に握らせた、家紋入りの銀製の根付。
招待客のリストも、テーブルセッティングの見本も、革装丁の誓いの言葉の冊子も、置いたままにしておいた。
鍵の回る音がしたのは、午前1時を過ぎてからだった。
入ってきたのは圭吾ひとりだった。
スーツケースが目に入った瞬間、彼は足を止めた。その夜初めて、彼の顔から余裕が消えた。
「どこへ行く気だ?」
ふたつ目のスーツケースのファスナーを閉めながら、私は答えた。
「実家」
「結衣」
その声には、さっきまでとは違う響きがあった。苛立ちではない。怯えだった。
私の腕をつかんでいた手の力がゆるみ、もう片方の手が私の頬に伸びてくる。
「やめてくれ」
ほんの一瞬、危うく絆されそうになるほど、彼はかつて私が愛した圭吾に見えた。喧嘩のあとには必ず私を抱き寄せた人。わだかまりを残したまま眠るのが耐えられないと言っていた人。
彼が顔を寄せてくるが、私は顔をそむけた。
圭吾が凍りつく。私がそうしたのは、初めてだった。彼は私の目の奥を探るように見つめた。
「本気なんだな」
「ええ」
その顔を、一瞬だけ焦りがよぎった。けれどそれは、すぐにプライドに塗り込められた。
「怒ってるんだな。いいさ、好きなだけ怒ってろよ」
親指で私の手首をなぞってから、彼は手を離した。
「でも、今夜のことくらいで3年間を終わりにはさせない」
「今夜のことで終わりにするんじゃないわ」
圭吾の顎に力がこもる。
「今夜のおかげで、やっとこの3年間の意味がわかったから、終わりにするの」
しばらくのあいだ、彼は何も言わなかった。それから、信じられないというように短く笑った。
「昨日まで俺を信じてたじゃないか。昨夜だって俺のベッドにいた。なのに今さら、俺たちのことは全部何でもなかったみたいな顔をするのか?」
「何でもなくなんかないから、あなたのしたことがこんなに痛いのよ。
人を笑い者にしておいて、今さら私があなたを愛してたことを、引き止める理由にしないで」
圭吾が何か言い返すより先に、玄関のドアがまた開いた。
シャンパンを手にした拓海が入ってくる。その後ろから、大きな海鮮の盛り合わせを両手で抱えた綾乃が続いた。
「あ、いたいた」
綾乃がやけに明るく笑う。
「みんなでちょっと落ち着いたほうがいいかなと思って」
拓海は圭吾の顔を見て、それから私のスーツケースに目をやった。
「おいおい、勘弁してくれよ」
綾乃は持ってきたものをキッチンカウンターに並べた。
「今夜を仕切り直しに来たの。何か食べて、一杯飲んだら、明日にはもう誰も覚えてないって」
大皿の中央には、伊勢海老と生牡蠣が盛られていた。
私には、重度の甲殻類・貝類アレルギーがある。
その隣には、小麦不使用のクラッカーがきちんと添えられていた。最近、小麦を食べるとお腹が張る気がする、と綾乃が言い出したからだ。
綾乃が一度口にしただけの好みを、圭吾は覚えていた。
私が4年間、アナフィラキシーの自己注射薬を持ち歩いていることは忘れていたのに。
「どうぞ、ご自由に」
私はスーツケースに手を伸ばした。
拓海が笑う。
「また始まったよ。昔から、喧嘩するたびに実家に帰るって言ってたよな。で、次の日にはけろっと戻ってくる」
「今回は違うわ」
圭吾の目は、私から離れなかった。
「式をやめるって言ってるんだ」
さすがの拓海も、笑みを引っ込めた。
綾乃がまばたきをする。
「……ケーキのことで?」
「ケーキのことじゃないわ」
「じゃあ、賭けのことか」
圭吾は頭を掻いた。
「始まり方がよくなかったのはわかってる。でも、この3年間は本物だった。今夜恥をかいたからって、俺たちの関係を丸ごと書き換えるなよ」
「この3年間が本物だったからこそ、今夜のことを冗談で済ませるわけにはいかないの」
珍しく、圭吾は言い返す言葉を持っていなかった。
拓海は自分のグラスにシャンパンを注ぎ、カウンターにもたれかかった。
「お前は疲れてるんだよ。式も近いし、なんでも深刻に受け取りすぎだ」
「それに、たった一度の判断ミスで圭吾を責めすぎだよ」
綾乃が穏やかに言い添える。
「パーティーで私に言ったことだけ謝ってくれたら、みんな水に流せるから」
私は3人の顔を、ひとりずつ見回した。
「人の家に押しかけて、私を救急病院送りにしかねない料理を持ち込んでおいて、それでもまだ、謝らなきゃいけないのは私のほうなのね」
圭吾の視線が、海鮮の大皿に落ちた。
ほんの一瞬、その顔に、ばつの悪そうな色がかすめる。
拓海は鼻で笑った。
「誰も食えなんて言ってないだろ。ちょっとしたミスをいちいち『自分は大事にされてない』って証拠にするのはやめろよ」
手を変え品を変えただけの、いつものやり口だった。
私がそのやり口を指摘すれば、話をねじ曲げていると言われる。
黙っていれば、何も問題はない証拠だと言われる。
綾乃の目が、みるみる潤んだ。
「私のせいだよね。賭けの話なんか持ち出すべきじゃなかったし、みんなが圭吾をはやし立てるのも止めるべきだった。結衣がそこまで気にするなら、ごめんね」
彼女は料理と一緒に持ってきた保温ポットに手を伸ばした。
「スープも作ってきたの。出ていく前に、せめて温かいものだけでも飲んで」
「いらない」
私はスーツケースを閉じようと身をかがめた。
綾乃が一歩近づく。その手から保温ポットが滑り落ち、煮えたぎるようなスープが私のブラウスの脇腹のあたりにかかった。
悲鳴を上げて、私はよろめくように後ずさった。腰のあたりに、たちまち焼けるような熱さが広がる。
「うそ、どうしよう!」
綾乃が口元を押さえる。
「結衣、ほんとにごめん。わざとじゃないの」
圭吾がタオルをつかみ、拓海は綾乃をこぼれたスープから引き離した。
「事故だろ」
拓海が言った。
「こんなことでまた揉め事を起こすなよ」
綾乃が、濡れた瞳で私を見つめる。
「私、ただ結衣のことが心配だっただけなのに」
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