私の恋を賭けた彼は、すべてを失った第1話
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合同で開いた婚約パーティーの帰り際、私と親友の、それぞれの薬指には真新しい指輪がはまっていた。
宮本綾乃(みやもと あやの)の相手は中西拓海(なかにし たくみ)。私が10年ものあいだ、胸の奥で想い続けてきた人だ。
そして私、相原結衣(あいはら ゆい)の相手は瀬戸圭吾(せと けいご)。社交界の噂好きたちが「あの人は婚約者に首ったけだ」と口をそろえる男だった。
私が乾杯の挨拶に立つと、綾乃は昔の賭けを蒸し返し、招待客に向かって得意げに笑ってみせた。
「さて、うちのお姫様は、もう婚約者をちゃんと飼い慣らせてるのかしら?」
会場のあちこちから、ケーキを私の顔に押しつけろと圭吾をはやし立てる声が上がる。
彼の手が、ふと止まった。
ほんの一瞬、私は馬鹿みたいに信じてしまった。彼が皿を置き、いつも約束してくれたように、私の隣に立ってくれるのだと。
なのに拓海が「なんだよ、結婚前からもう尻に敷かれてんのか」と茶化した。
圭吾が奥歯をぎりりと噛みしめる。
次の瞬間、彼はその手で、ケーキを私の顔に押しつけていた。
どっと湧き返る笑い声のなか、拓海が私にだけ聞こえる声で告げた。圭吾が私に近づいたのは、最初から3人で仕組んだ賭けがきっかけだったからだ、と。
綾乃が、まるで今も親友であるかのように、するりと私の腕に腕を絡めてくる。
「誰も結衣を裏切ってなんかないってば。ただの冗談なのに、またそうやって大げさにするんだから」
圭吾は私の前に立ち塞がった。私が彼のしたことを許すのを、微塵も疑っていない顔で。
「結婚はやめないって言ってるだろ。これ以上、何を証明しろっていうんだよ」
3人とも待っていたのだ。私が泣きわめき、問いただし、そしてまた、彼らが私の気持ちを都合よく解釈する機会を与えるのを。
けれど私は、目元にこびりついたクリームを指でぬぐうと、遠く離れた実家の母に、たった1通のメッセージを送った。
【お母さん、みんなに伝えて。私、実家に帰る決心がついたって】
* * *
クリームで汚れたナプキンを銀のトレーに置き、ドレスの胸元に留めていたブローチを外した。
綾乃はまだ笑っていた。拓海にしなだれかかりながら言う。
「結衣って、今回は本気で怒っちゃったみたい。誰がなだめに行く?」
拓海はグラスを圭吾のほうへ掲げた。
「そりゃ婚約者の役目だろ。来週の土曜には式を挙げるんだし、今のうちに慣れとけよ」
圭吾は、すぐには私のそばへ来なかった。指についたバタークリームを、ようやく事態を呑み込んだような顔で見つめている。
けれど周りにはまだこちらへ向けられたスマホがいくつもあって、彼は人前で頭を下げるような人ではない。彼はイニシャルの刺繍入りのハンカチで手を拭ってから、私の前に立った。
「なあ、もういいだろ」
まるで、騒ぎを起こしたのは私だとでも言うように。
「何が『もういい』の?」
私は訊いた。
「あなたたちの遊びのこと?それとも、それに怒ってる私のこと?」
圭吾の表情がわずかに揺れた。けれど彼が口を開くより先に、拓海が割って入る。
「大げさにするなよ。好きでもない相手のために、圭吾が半年もかけて結婚式の準備なんてするわけないだろ」
「そうそう」
綾乃が拓海の肩に頬を寄せる。完璧に作り込まれた、甘ったるい笑顔で言った。
「たしかに最初は賭けがきっかけだったけど、そのあと圭吾はちゃんと結衣を好きになったんだよ。結衣はハッピーエンドを手に入れたの。始まりなんかにこだわってどうするの?」
シャンデリアの光を受けて、彼女の左手にはめられたダイヤモンドがきらめいた。
4年前、拓海は私へのプロポーズの準備を綾乃に手伝ってもらっていた。そして私が彼の寝室のドアを開けたとき、ふたりは同じ毛布にくるまっていた。
綾乃はカメラを構えていて、拓海は枕の下から指輪のケースを取り出しながらこう言った。お前がヤキモチを焼くところが可愛いから、撮っておきたかったんだ、と。
10年間の想いに、私はその夜、終止符を打った。
その後、綾乃は周りに言いふらした。結衣はいつまでたっても冗談が通じない。拓海が綾乃を好きになったのは、結衣が彼を突き放したあとだ、と。
彼女に笑い者にされたのは、それが初めてではなかった。学生時代、綾乃は私に、ある慈善パーティーのテーマは「大正ロマン」だと教えた。
私は矢絣の着物に袴という姿で会場に向かった。ところがそこは正装必須の格式ばった資金集めの場で、ほかの女性は全員ドレスだった。入口で凍りつく私を綾乃は動画に撮り、同期のグループチャットに流した。
消してと頼むと、彼女は目を潤ませて、ドレスコードを勘違いしていたのだと言った。
パーティーがお開きになるころには、なぜかみんなが私に、綾乃に恥をかかせないであげてと言っていた。
彼女の冗談は、いつも同じ結末を迎える。
綾乃が見世物を仕立てる。私が傷つく。そして拓海と圭吾が、場の空気を壊しているのはお前のほうだと諭すのだ。
「わざとじゃなかったって言えば、やったことが全部なかったことになると本気で思ってるの?」
私は綾乃に問いかけた。
綾乃の笑みが陰る。
「私、ずっと結衣のことを家族みたいに思ってきたのに。どうしてそんなひどい人間だと思えるの?」
拓海の顔がたちまちこわばった。
「綾乃はちゃんと説明しようとしてるだろ。なのにお前は、みんなの前で吊るし上げかよ」
圭吾が眉をひそめる。
「結衣、俺たちの婚約パーティーを見世物にするのはやめてくれ」
思わず笑いそうになった。ほんの10分前、私をこの夜の余興に仕立て上げたのは彼自身なのに。今になって、場を見世物にしているのは私のほうだという。
さっきまで私たちの未来に乾杯していた人たちは、急にうつむくか、私と目を合わせるのを避けていた。銀行家、名家の御曹司、政界の後援者、古くからの家族ぐるみの知人。何人かは居心地が悪そうにしていた。けれど、スマホを下ろした人はひとりもいなかった。
何よりやりきれなかったのは、圭吾の愛が、まったくの嘘ではなかったことだ。
私がクローゼットの扉を開けたままでは眠れないことを、彼は知っていた。父が亡くなったときには、知らせを受けてわずか6時間で実家まで駆けつけてくれた。祖母が彼の手のひらに押しつけた古いお守りを、今でもすり切れるほど持ち歩いている。
それなのに、拓海にプライドをつつかれた瞬間、彼は愛していると言った女よりも、その場にいる人々からの承認を選んだのだ。
耳元の、クリームにまみれたダイヤの髪飾りを外し、パーティーバッグにしまう。出口へ向かうと、圭吾が私の肘をつかんだ。けれど私がその手に視線を落とした途端、彼はぱっと手を離した。
「……どこへ行くんだ」
「家に帰るの」
圭吾は声を落とした。
「わかった。頭を冷やしてこい。でも結婚式はやめないからな。土曜の朝、迎えの車を行かせる」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「俺はそれでもお前と結婚するんだ。これ以上、何を望むっていうんだよ」
彼にとって、結婚とはすべての過ちを帳消しにする免罪符なのだ。「妻の座を与えてやるのだから、ありがたく思え」と本気で信じている。
私は、結婚とは男が女に与えるご褒美ではないと教えられて育った。互いへの信頼の上に築かれるパートナーシップなのだと。敬意のない関係など、破られるのを待つだけの契約書にすぎない。
圭吾は、私が遠く離れた実家に残してきた家族のことを、ほとんど何も知らない。ましてや、彼の会社を成長させた資金や人脈の一部が、私を通してひそかに流れ込んでいたことなど、知るはずもなかった。
ホテルを出ると、都会の夜道が雨に濡れて光っていた。案内係に黒塗りのハイヤーへ乗せてもらい、そこでようやく母からの返信を開く。
【彼と別れるなら、うちが瀬戸ハーバーに注いできたものは、全部引き上げるわよ。本当にそれでいいのね?】
私は迷わず打ち返した。
【ええ。もう彼とは別れる】
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