和紙文私のかわいい息子は、夫の初恋をママと呼んだ · 第2話設定≡

私のかわいい息子は、夫の初恋をママと呼んだ第2話

この話は約1959字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

電話の向こうの先生・山本英樹(やまもと ひでき)の声は、少し驚いているようだった。

「でも、そうしてしまったら、君という人間は社会から完全にいなくなったということになる。ご主人も息子さんも、君がどこにいるのかを知る手段がなくなるんだぞ。以前は二人のために、この話を断ったじゃないか。それが、どうして今になって……」

楓はぎゅっとスマホを握り締めた。これまでの人生が、頭の中を一気に駆け巡った。

湊と健太は知らない。自分が、何もできないただの専業主婦なんかじゃないってことを。

7年前、楓は東都の中央大学の医学博士課程に、最年少で在籍していた。研究者としての才能に恵まれ、ほとんど毎日研究室にこもっていた。

ある日、また徹夜で実験を終えて、ふらふらと土手を歩いていた。疲労のせいで突然目が眩み、そのまま川の方へと倒れてしまった。

周りから悲鳴が聞こえる中、誰かの手が、腕をがしっと掴んでくれた。しかし、次の瞬間、楓はもう意識を失ってしまった。

再び目が覚めたとき、病院のベッドにいた。隣のベッドでは、擦り傷だらけの湊が手当てを受けていた。

看護師から聞いて、ようやく何があったのか分かった。川に落ちる寸前、湊がとっさに腕を掴んでくれた。

しかし、落ちる勢いのまま、二人とも川に引きずり込まれそうになった。水に落ちる寸前、湊がとっさに木の枝を掴んでくれたから、なんとか助かったらしかった。

楓は感謝と申し訳なさでいっぱいになった。そんな彼女を見て、湊は優しく声をかけた。「大丈夫。次からは気をつけろ」って。楓は気を失っただけで、彼は全身に傷を負っているのに、慰めてくれたのだ。

その瞬間、研究のことしか頭になかった楓の心に、湊の姿がすっと入り込んできた。

退院する日、楓は勇気を振り絞って、湊の電話番号を聞いた。

断られるのが怖くて、楓は慌てて付け加えた。命の恩人だから、何かお礼がしたいだけなんだ、と。

すると湊は、しばらく黙って楓を見つめてから、こう言った。「お礼がしたいって?じゃあ、俺と結婚してくれないかな?」

楓は信じられない気持ちで、湊を見つめ返した。彼が冗談を言っているわけじゃないと分かると、胸が激しく高鳴った。そして、気づけば、楓は彼に答えていた。

「はい、喜んで」

こうして、楓は湊の妻になった。

結婚してすぐ、楓は健太を授かった。もともと体が弱かったから、医者には、絶対安静を言い渡された。少しでも無理をしたら危ないということだった。

楓はお腹をさすりながら、悩んだ末に、医薬科学研究所からの誘いを断って、専業主婦になる道を選んだ。

湊も、夫としての役割をしっかり果たしてくれた。病院には毎回付き添ってくれたし、出張に行けばプレゼントを買ってきてくれた。出産の痛みに苦しむ楓を見て、心を痛めてくれた……

楓は、愛する人と結婚できて、ずっと幸せだった。しかしその幸福は、いつまでも続かなかった。

1ヶ月前の、土砂降りの夜。知らない女の人が、ずぶ濡れになりながら家のドアを叩いた。

楓と湊がドアを開けた途端、その人は気を失って倒れてしまった。

いつもは冷静な湊が、動揺を見せながら、すぐにその人を抱きかかえて車に駆け込んだ。

その時、楓は初めて知った。あれは湊の初恋の相手、渚だったなんて。

彼女は昔、湊を振って、海外に行ってしまった。湊が楓にプロポーズしてきたのは、失恋のショックから立ち直るため、誰かと一緒になりたかっただけだった。

そのタイミングで、楓は研究所から、再び誘いを受けた。

悲しい事実を知ってしまったけれど、それでも湊はずっと愛してきた人間で、二人の間に5歳の息子もいるのだ。

楓は信じていた。自分が湊と健太を愛しているのと同じように、自分も二人から愛されているのだと。

だから、どうしても研究のために、家庭を手放すことができなかった。

しかし今日、迷う必要はもう、なくなってしまった。

楓は、目の奥の悲しさを隠すように、ぐっと目を伏せた。

「もう、あの二人とは何の関係もありませんから」

英樹はため息をついたが、結局、それ以上のことは聞かなかった。

「手続きは1週間後には終わるだろう。その頃に、正式に迎えよう」

電話を切ると、楓は暇つぶしにインスタを開いた。

すると、渚が投稿を更新していた。

【家族】

写真では、湊と渚が健太を間に挟んで抱きしめ、3人で幸せそうに笑っている。

なるほど。あんなに急いで出かけて行って、真っ先にやったことが、渚と家族写真を撮ることだったわけね。

ピコン、と通知音が鳴り、渚がまた新しい写真を添えて投稿を更新した。

【この幸せな夢が、永遠に続くように】

楓はその投稿をじっと見つめた。よく知っている、湊と健太の笑顔から、目が離せなかった。

そして最後に、楓はゆっくりとその投稿に「いいね」を押した。

この夫と息子は、今日から、もう他人でいい。

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)