研究より弟子を選んだ夫と離婚第2話
この話は約1751字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
手術の日、私はひとりで病院へ行った。
待合室で名前を呼ばれるのを聞きながら、爪が食い込むほど強く拳を握りしめていた。
冷たい手術台に横たわり、麻酔で意識が遠のいていく。次に目を開けた時には、すべてが終わっていた。
回復室へ運ばれた頃には、外はもう暗かった。
麻酔が切れてくると、私は震える手で賢斗に電話をかけた。
呼び出し音が2度鳴り、切られた。
かけ直しても同じだった。
外ではいつの間にか雲が低く垂れ込め、黒い雲に覆われていた。細い雨がしとしとと降り続き、湿った空気が重くまとわりつく。
胸の奥まで、その息苦しい夜の闇に押し潰されそうだった。
すると、スマホが短く震えた。賢斗からだった。
【今忙しい】
画面に浮かんだのは、たったひとこと。それだけで、私の電話を迷惑そうに眉をひそめて見つめる彼の顔まで浮かんだ。こんな遅くに妻が病院から電話をした理由さえ、気にならないらしい。
スマホを置き、窓を伝う雨粒を見つめた。
また通知が鳴った。今度こそと思い、期待しながら画面を開いた。
だが、送り主は賢斗ではなく、卒業以来ずっと彼についている教え子の三輪玲那(みわ れな)だった。
【奥さん、ご安心ください。今日も私が先生を引き止めて、ちゃんとご飯を食べてもらいましたよ。
食べ終わったら、ちゃんと帰るように言っておきますね。体を壊さないよう、私が見張り役になりますから!】
最後には、愛嬌たっぷりに甘える猫のスタンプがついていた。
仕事の報告のようでいて、どこか親密さを匂わせる文面だった。
彼女から届いたメッセージを呆然と見つめ、私はしばらく戸惑いを隠せなかった。
初めて玲那に会った日のことを思い出した。
当時の賢斗はよく残業をしており、研究室にこもったきり、なかなか家へ帰ってこなかった。
彼の身体が心配でたまらなかった私は、描きかけの絵をそのままにして、差し入れの弁当を届けに行ったことがある。
その時、玲那はまだ研究室に入ったばかりの新人で、賢斗のすぐそばで細い身体を縮こまらせながら手伝いをしていた。
私が入っていくのを目にすると、彼女は賢斗の背中へそっと隠れ、まるで怯えた小動物のような小さな声で「奥さん」と呼んだ。
ひたむきで物静か、そして従順そうな印象の女性だった。誰かと視線が合えば、森の鹿のように潤んだ瞳でこちらを見つめ返し、すぐに賢斗の背後に隠れてしまう、そんな愛らしい子だったはずだ。
けれど、あれから3年という月日が流れた今、玲那はまるで別人のように変貌を遂げていた。
彼女のSNSを開くと、20分ほど前に投稿されたばかりの写真があった。
高級そうなレストランで、ふたりきりで食事を楽しんでいる1枚。
添えられた文章には【出会って3年目の記念日。大好きな彼に感謝】と記されている。
薄暗い照明の中、テーブルにはキャンドルが静かに灯り、ロマンチックな雰囲気がたっぷりと切り取られていた。
向かいの席に座る人物の顔こそ写っていなかったものの、袖口から覗く程よく筋肉のついた腕がはっきりと写り込んでいた。見るからに洗練された、男性の引き締まった綺麗な腕だった。
しかし、私の視線を釘付けにしたのは、その男の手首に光る腕時計だった。それはまさしく、私たちの結婚記念日に、私が賢斗のために贈った腕時計だった。
胸の奥底から苦いものがせり上がってきて、私は自嘲するように笑った。
とっくの昔に気づくべきだったのだ。
私と賢斗の結婚生活は、とうの昔にすり減り、ただの冷たく淀んだ水たまりと化していた。
今、目の前の画面に広がっている光景も、本当はもっとずっと前から容易に予見できたはずだった。
彼はいつも、「研究に夢中なんだ」と私に語っていた。
彼が本当に夢中になっていたのは、研究ではなく、研究室にいる彼女の方だったというわけだ。
病院のベッドで膝を抱える私のお腹は、まだ鈍く引きつるような痛みを絶え間なく放っていた。それがまるで、私の愚かさを嘲笑っているかのように思えた。
窓の外で降り続く冷たい雨音に耳を澄ませながら、ゆっくりと目を閉じる。奥歯をどれほど強く噛みしめても止められないまま、熱い涙が頬を伝い落ちていった。
彼が私の中絶手術に付き添う時間すら作れなかったのも、当然の話だった。何よりも大切な、可愛い弟子のそばにいてやらなければならなかったのだから。
……
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)