真夏に消える彼第3話
この話は約1726字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
その瞬間、全身から力が抜け落ちた。
生き延びさえすれば、どれほど苦しんだとしても、すべてなかったことにできるらしい。
怒りも悔しさも、喉の奥に詰まった綿の塊のようになり、言葉にすることができなかった。
私は背を向け、その場を立ち去ろうとした。
夏央は数歩で追いつくと、強引に私の手首をつかんだ。
「どこへ行くんだ?ただでさえ方向音痴なのに、ここは外国なんだぞ。迷子になったらどうする?」
私は無理やり車の後部座席へ押し込まれた。
30分後、車は白い一戸建ての前に止まった。
庭にはアジサイとレモンの木が植えられ、ポーチには風鈴が吊るされている。風が吹くたび、澄んだ音が鳴り響いた。
玄関先に立った私は、思わず息をのんだ。
エントランスのアーチ。
吹き抜けのリビングに設けられた大きな窓。
右手にある半オープンタイプの書斎。
暖炉の脇に造り付けられた本棚の形まで、私が描いた設計図とまったく同じだった。
2年前、私は胸を躍らせながら、夏央を新築住宅の内覧会へ連れていった。
「ここを買って、二人の新居にしない?」
あの頃の私は夜更かしを重ね、ありとあらゆる資料を調べ、何度も図面を描き直した。
二人で暮らす未来の家を、隅々まで丁寧に思い描いていたのだ。
私が宝物のように大切にし、何度も何度も描いた未来の青写真。
それが今、この場所で別の女の家になっていた。
そのとき、キッチンから聞き覚えのある声がした。
「今日はずいぶん早かったのね。花奈ちゃん、何が食べたい?私が作ってあげるわ。肉じゃがなら、もうほろほろになるまで煮込んであるの。優太もおなかがすいたでしょう?」
振り向いた私は、目を疑った。
そこにいたのは、夏央の母親だった。
彼女は重度の高血圧と冠動脈疾患を患っており、昔から身体が弱かった。
ここ数年、何度も入退院を繰り返すたび、私は知人を頼って評判の専門医を紹介してもらい、病室でもつきっきりで看病してきた。
彼女は誰に会っても、私は娘も同然だと褒めていた。
なんて滑稽なのだろう。
私は愚かにも、その言葉を本気で信じていた。
夏央の母親は後ろめたそうに視線をさまよわせ、私と目を合わせようともしなかった。
「......優太、おいで。おばあちゃんとブロック遊びをしましょう」
広々としたリビングには、たちまち私たち三人だけが残された。
夏央と花奈は同じソファに並んで座った。
私は一人、向かい側のソファに腰を下ろした。
その座り方だけで、立場の違いはあまりにも明白だった。
招かれもしないのに押しかけてきた部外者は、私のほうだ。
重苦しい沈黙を最初に破ったのは、夏央だった。
「もう全部知っているなら、これ以上隠しても仕方ない。大学四年の卒業パーティーで、みんな酔っていた。俺も花奈もまともな判断ができる状態じゃなかったし......翌朝目を覚ましたときには、もう取り返しのつかないことになっていたんだ」
花奈は目を真っ赤にして、か細い声で続けた。
「小暖、あなたに合わせる顔がないことは分かってるの。だからあのことが起きたあと、私はその日の夜に航空券を買って、海外へ逃げるように出ていったの......ちゃんと避妊薬も飲んだのに、まさか......妊娠するなんて」
そこまで言うと、彼女は不意に顔を上げ、取り乱した目で私を見た。
「医師に言われたの。私は身体が弱いから、もし中絶したら、もう二度と妊娠できなくなるかもしれないって......小暖、私だって一人の女なのよ。母親になる権利を自分から残酷に奪えるはずないよ」
花奈の泣き声が、さらに激しくなった。
「本当に二人の仲を壊すつもりなんてなかった......優太が1歳のとき、急性肺炎になるまでは。怖くてたまらなくて......それで初めて夏央に連絡したの」
夏央は困り果てたように言った。
「小暖、子供に罪はないんだ。優太には父親が必要だ。だから俺は毎年2か月だけ時間をつくって、父親として果たせなかった責任を埋め合わせている。それだけだ」
彼は私の目をまっすぐ見つめた。
「その2か月を除けば、残りの10か月はずっと君のそばにいる。それだけでは足りないというのか。俺には君に対する責任もあるが、優太に対する責任もある。両方の責任を果たそうとすることの、何がいけないんだ?」
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