和紙文灰燼に咲く紫の旋律 · 第1話設定≡

灰燼に咲く紫の旋律第1話

この話は約4068字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

神浜(かみはま)女子刑務所。

看守は結城澪(ゆうき みお)に小さな手荷物を手渡すと、重い鉄の扉を開けて彼女を送り出した。

「二度と同じ過ちを繰り返すんじゃないぞ。これからは真っ当に生きなさい」

澪は荷物をきつく握りしめ、すっかり荒れ果てた自分の両手を見つめていた。その顔から表情は失われ、瞳は虚ろだった。

自分は一体、どんな過ちを犯したというのか――彼女には、到底理解できなかった。

呆然と立ち尽くしていると、視界に一台の黒い高級車が滑り込み、彼女の前で停まった。

ドアを開けて降りてきた御堂湊(みどう みなと)が、骨ばったしなやかな手を差し出し、彼女を車に乗せようとする。

だが、澪はその手を冷たく躱し、自ら後部座席に乗り込んだ。

湊は宙に浮いた手を引っ込めてドアを閉めると、深いため息をこぼした。

「今日、迎えに来たのは俺だけだ。

君の出所日が、ちょうど柚奈のチェロの発表会と重なってね。ご両親と兄さんはそっちに行っている」

澪はゆっくりと視線を上げ、彼の端正な横顔を見つめて問うた。

「……どうして、あなたは行かなかったの?」

「え?」

湊は一瞬、呆気に取られた。

澪は無表情のまま、淡々と同じ言葉を繰り返す。

「どうして行かなかったの?あなたも、お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも……みんな、桜井柚奈(さくらい ゆな)のことしか愛してないじゃない」

湊は途端に顔を曇らせ、不快げに眉をひそめた。

「何を馬鹿なことを言っているんだ

俺たちが一番愛しているのは、当然君だよ。君が柚奈にあんな酷いことさえしなければ、俺たちだって、頭を冷やさせるために君を刑務所へ送ったりなんてしなかった」

* * *

その言葉を聞いた澪は、窓の外を飛ぶように流れていく景色を見つめながら、あまりの可笑しさに涙が出そうになった。

一番愛している?たしかに、昔はそうだったかもしれない。

幼い頃から、両親や兄の結城翔(ゆうき かける)、そして婚約者の湊に至るまで、皆が彼女を溺愛していた。

目に入れても痛くないほど大切に育てられ、彼女は間違いなく、この世で一番幸せなお姫様だった。

だが、不慮の事故で彼女が植物状態になってから、すべてが狂い始めた。

最初のうちこそ、彼らは毎日病室を訪れていた。澪は目を覚ませないものの意識はあり、彼らが涙ながらに語りかけてくるのをよく聞いていた。

しかし、いつからか「桜井柚奈」という名前が頻繁に耳に入るようになる。

後になって知ったことだが、彼らは悲しみと寂しさに耐えきれず、澪に少し面影の似た身代わりを見つけて心の拠り所にしていたのだ。

その身代わりの少女こそが、柚奈だった。

次第に彼らの口から柚奈の名前が出る回数が増えていき、澪は焦燥感に駆られ、必死の思いで目を覚まそうと藻掻いた。

そして奇跡的に意識を取り戻した時、皆は泣いて喜んでくれた。自分が目覚めれば、もう柚奈という身代わりは必要なくなる――澪はそう信じていた。

ところが、彼らは柚奈を手放そうとはしなかった。

両親は涙ながらに訴えた。

「柚奈はこれまで苦労ばかりしてきた。お前の代わりに、この2年間ずっと私たちに寄り添ってくれた恩人なのだ。だから、このまま家に置いて、幸せにしてあげたいんだ」

両親の涙に絆され、澪はしぶしぶ承諾した。

だが、両親も兄の翔も湊も、すでに澪自身よりはるかに強い関心と愛情を柚奈へ向けていることを、すぐに思い知ることになった。

しかも柚奈は決して見た目通りの大人しい娘などではなかった。裏では何度も澪を陥れたのだ。

澪に平手打ちされ、階段から突き落とされたと泣きつき、皆はそれを鵜呑みにした。

さらに柚奈が交通事故に遭った時さえ、澪が車で撥ねたのだと嘘をついた。

両親と翔、そして湊は激怒し、「澪の身勝手さは目に余る」と吐き捨てた。

だからこそ、両親と兄、そして婚約者が結託し、彼女を刑務所へと送り込んだのだ。あそこで苦労を味わわせ、我儘なお嬢様気質を叩き直して更生させるという名目で。

地獄のような3年間を刑務所で過ごさせた挙句、湊は「一番愛しているのは君だ」と抜かすのか?

澪が目尻を赤く染めているのを見て、湊は胸を締め付けられたように口を開きかけた。

その時、間の悪い着信音が車内に響き渡る。

電話に出ると、柚奈の甘ったるい声が漏れ聞こえてきた。

「湊、私の初めてのチェロの演奏会、どうして来てくれないの?まだ来てないの、湊だけだよ」

湊の目元は一瞬で和らぎ、声色は甘く溶けた。

「いい子だから待ってて。今日は澪を迎えに行かなきゃならないんだ」

「じゃあ、お姉ちゃんも一緒に連れてきてよ!」

湊が押し黙ると、彼女はさらに媚びるような声を出した。

「もう、みんなお姉ちゃんがまた私に酷いことするんじゃないかって心配してるのは分かってる。でも、私信じてるの。お姉ちゃんはもうそんなことしないって。だから一緒に来てよ!私にとって初めての演奏会なんだから、湊には絶対見てほしいの」

湊は思わず破顔した。

「分かった、すぐに向かうよ」

電話を切った後、彼は運転手に行き先を変更させた。

コンサートホールに到着すると、彼は釘を刺すように言った。

「いいか澪、柚奈は優しくて純粋で、体も弱い。もう二度とあの子を傷つけないでくれよ」

澪は彼に手を引かれるがまま歩きながら、その言葉を右から左へ聞き流した。

優しい?それは彼らの前でだけの話だろう。

目の前に広がる円形のホールは、千人以上を収容できる巨大なものだった。まばゆいスポットライトが舞台の中央を照らし出し、思わず目を奪われる。

そこは、かつて彼女が立ちたいと夢見た場所だった。

かつて澪もチェロを学んでいた。彼女には類まれな才能があり、世界的なチェロ奏者になるのが夢だった。

しかし今となっては、すべてが叶わぬ幻となった。

前科者という烙印は彼女の人生に深く焼き付き、決して剥がすことはできない。

舞台裏の控室では、母の結城百合子(ゆうき ゆりこ)が真剣な眼差しで柚奈のドレスの裾を直し、兄の翔が彼女の後ろからネックレスを着け、父の結城雅臣(ゆうき まさおみ)は満面の笑みで彼らを見守っていた。

家族4人、絵に描いたような和やかな光景。

――だが本来、彼らは澪の家族であるはずなのに。

「今回は、チェロ界の国宝級とも言われる東条先生もいらっしゃるって聞いたの。先生、ずっと最後の弟子を探してるらしくて、選ばれたらいいなって。

でも、本当に先生に選ばれちゃったらどうしよう。先生と一緒に世界ツアーを回ることになるらしいから、そうなったらみんなとなかなか会えなくなっちゃう」

それを聞くと、湊はすぐさま柚奈のもとに歩み寄り、こぼれ落ちた髪を優しく耳にかけた。

「馬鹿だな。選ばれたら、迷わず行くべきだ。こんな機会は滅多にない。東条先生は業界でも絶対的な権威だし、先生の弟子になれば、君は間違いなく世界トップクラスのチェリストになれる。俺たちのことなら、毎週君に会いに行けば済む話だ」

柚奈は嬉しそうに微笑んだ。何かを言おうとした瞬間、視界の隅に澪の姿を捉えるや否や、慌てて駆け寄って彼女の腕にべったりと抱きついた。

「お姉ちゃん、おかえりなさい!」

澪は嫌悪感を覚えながら自分の腕を引き抜き、適当に相槌を打った。

結城家の両親と翔は彼女を見てあからさまに眉をひそめ、冷たく言い放った。

「帰ってきたからには、そのひねくれた性根を改めなさい。もう二度と柚奈を目の敵にするんじゃないぞ」

澪が口を開く前に、スタッフが呼びに来た。

「桜井様、出番です」

柚奈が舞台へ向かうと、4人は連れ立って客席へ向かった。舞台上でスポットライトを浴びてキラキラと輝く柚奈を見つめる彼らの瞳は、深い称賛と愛情に満ちていた。

公演が終わり、会場が熱気に包まれたまま散会する頃。澪が椅子を片付けようと身をかがめた瞬間、ゆったりとした襟元から、無残な青紫色のあざが覗いた。

かつて白かった肌は、まともな皮膚がほとんど残っていないほど傷だらけだった。

湊は目を見開き、彼女の手を掴んで震える声で言った。

「澪、その傷は……一体どうしたんだ?」

結城家の面々もそれに気付き、顔色を一変させた。

どうしたのか、だと?

刑務所に入ってからというもの、澪は毎日のように殴る蹴るのリンチを受け、ろくに食事も睡眠もとれなかった。そして、そのすべての元凶は柚奈が看守に放った「姉をよろしくお願いしますね」という一言だったのだ。

澪の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。湊が彼女の服をめくって傷を確認しようとした瞬間、少し離れた場所から柚奈の痛がる声が聞こえた。

「痛っ!」

彼女は足首を押さえ、小さな顔を苦痛に歪めていた。

一瞬にして、雅臣、百合子、翔、そして湊の全員が我先にと彼女の前に駆け寄った。

湊が彼女をふわりと横抱きにし、結城家の面々も総出で彼女を囲むようにして足早に立ち去っていく。

澪はその光景を冷めた目で見送り、再び皮肉げに唇を吊り上げた。

一人で帰路に就こうとした時、突然、行く手を遮る人物が現れた。

彼女は足を止め、その顔を見て全身を硬直させた。

「と……東条先生?」

東条は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「結城澪さん、私のことを覚えていてくれたとは光栄だ。それなら、3年前に私が君を弟子に迎えたいと言ったことも覚えているだろう。あの時、君は家族と離れたくないと断ったが……今、もう一度だけ聞こう。私と一緒に来る気はあるかい?」

「東条先生、先生は柚奈の演奏を見にいらしたのでは?それに、今の私は前科者で……」

澪は気まずそうに、どう答えればいいか分からずにいた。

「今日、君が出所すると知って、わざわざ君に会うためだけにここへ来たんだよ。

私が見込んでいるのは君の才能だけだ。過去や背景など一切気にしない。君のチェロの才能を、こんな所で腐らせるわけにはいかない。必ず君を国際的な舞台に立たせ、最も輝く星にしてみせる。もし今の身分が足枷になるなら、戸籍を変える手配だってしよう」

彼の力強い言葉を聞き、死んでいた彼女の瞳に次第にまばゆい光が蘇ってきた。

一瞬の沈黙の後、澪は決意を込めて答えた。

「はい!先生について行きます!」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)