灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る第2話
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静まり返ったフロアに、職員がキーボードを叩く音だけがやけに大きく響いていた。
しばらくして、職員が書類を確認しながら顔を上げる。
「お手続きは以上です。転出日以降は、国内の住民票から住所が抜ける形になります」
和葉は返された書類を受け取り、静かにうなずき、その場をあとにした。
家に戻ると、クローゼットを開けて、ひとつずつ荷物を片づけ始めた。
1枚取り出すたびに、古い傷口を無理やりこじ開けるようだった。
このシャツは、暁人の誕生日に贈ったもの。これを着た彼に連れられて、山頂まで日の出を見に行った。
あのマフラーは、夜更けまで起きて編んだもの。これを巻いているとお前の匂いがする、と彼はいつも言っていた。
引き出しには、期限切れのコンサートチケットが2枚眠っている。あの日は大雨で、ふたりはソファに寄り添い、一晩中レコードを聴いて過ごしたのだった。
手はかすかに震えていた。それでも和葉は迷わず、それらをすべてゴミ袋に放り込んだ。
日が暮れかけたころ、最後のゴミ袋を引きずって玄関へ向かうと、ドアの外から聞き慣れた足音がした。
ドアが開き、大きなお腹の舞来を支えるようにして、暁人が立っていた。
「ふふ、あとで絶対来てくださいね」
舞来は甘ったるく微笑むと、和葉に意味ありげな視線を向け、そのままのんびりとゲストルームへ歩いていった。
「和葉」
暁人は数歩近づき、声をひそめた。
「舞来はもうすぐ臨月だ。医者から、そばに誰かついていないと危ないって言われてる。だから……しばらく彼女と同じ部屋で寝て、様子を見ようと思う。
でも安心してくれ」
暁人は慌てて付け加えた。
「彼女とは、何もしないから」
暁人は、泣いてわめかれる覚悟をしていた。なだめる言葉まで、頭の中で何度も練習してあった。ところが意外にも、和葉はただ静かにうなずいただけだった。
「好きにすればいいわ」
暁人は虚を突かれたようだったが、すぐに安堵の息をついた。口元には満足げな笑みさえ浮かんでいる。
「あと1か月の辛抱だからな」
和葉は答えず、そのまま寝室へ向かった。
辛抱?
もう、辛抱なんてしない。
その夜のうちに、暁人は自分の服や身の回りの物をすべてゲストルームへ運び込んだ。
ドアにもたれながら、行き来する彼の背中を眺めていると、和葉にはふと、彼が自分の人生から少しずつこぼれ落ちていくように思えた。
夜も更けたころ、不意にドアをノックする音がした。
開けると、お腹を突き出すようにして舞来が立っていた。勝ち誇ったような色を隠そうともしていない。
「和葉さん、星山社長が買ってくれた妊娠線ケアのオイル、持ってくるの忘れちゃって。あとで塗ってくれるって言うから、取りに来たんです」
和葉の心臓が、ずきりと痛んだ。
舞来はただ子どもを産ませるための存在にすぎない。暁人はそう言っていたはずだ。
それなのに、どうして妊娠線のケアまで、彼自身の手でしてやるのだろう。
和葉は引き出しからオイルの瓶を取り出した。手渡すとき、指先がかすかに震えていた。
舞来はオイルを受け取っても、すぐには立ち去らなかった。和葉を頭のてっぺんから爪先まで、ねめ回すように見つめた。
「……星山社長と結婚して5年、子ども一人できなかったのに、私はたった一度で妊娠したんですよ。少しは引け目を感じないんですか?」
和葉は静かに見返した。
「その子がどうやってできたか、あなたが一番よく知ってるでしょう」
「だから何だっていうんです?」
舞来は鼻で笑った。
「あなたたち夫婦の行為に使った避妊具から盗んだんだとしても、今の私は星山家のたったひとりの跡継ぎを身ごもってるんです。それに比べて、あなたには何もないですよ?」
彼女は一歩踏み出し、声を落とした。
「ねえ、知ってます?私、あなたのそのすました顔が一番嫌いだったんですよ。援助してもらうたびに、施しを受けてる気分でした。でも、やっとあなたを足元に踏みつけてやれた。この子が生まれたら、あなたは一生私に勝てないんですもの」
これ以上、戯言に付き合うつもりはなかった。和葉がドアを閉めようとしたそのとき、舞来がさっと手を伸ばして隙間を押さえ、次の瞬間、勢いよく後ろへ倒れ込んだ。大げさな悲鳴が響き渡る。
「きゃあっ!」
和葉が状況をのみ込むより早く、暁人が駆け込んできて、床に倒れた舞来を抱き起こしていた。
「おい、和葉ッ!」
顔を上げた暁人の目には、信じられないものを見るような色が浮かんでいた。
「昼間、あと少し辛抱するって言ったじゃないか!」
「私は押してない」
和葉は冷静に言った。
「彼女が自分で倒れて、私のせいにしようとしてるのよ」
「お腹の子どもを危険にさらしてまで、お前を陥れるって?」
暁人は声を荒らげた。
「そんな話、お前は信じられるのか!?」
彼に怒鳴られたのは、これが初めてだった。
目の奥が熱くなる。それでも和葉は、意地を張るように顔を上げた。
「やってないわ。信じられないなら、廊下の防犯カメラを確認すればいい」
そう言って、舞来の腕を取ろうと手を伸ばした。
「いい加減にしろ!」
暁人は和葉を乱暴に突き飛ばした。
「これ以上、舞来をいじめるな!」
不意を突かれ、和葉の体は後ろへ倒れ込んだ。後頭部がドア枠に激しく打ちつけられる。
鋭い痛みが走り、生温かい血がこめかみを伝い落ちた。
けれど暁人は和葉に目もくれず、まだわざとらしくうめいてみせる舞来を抱き上げた。
「大丈夫だ。すぐに星山家の家庭医を呼ぶから!」
暁人はそのまま、舞来を抱いて廊下の奥へと消えていった。
床に座り込んだまま、和葉はふいに低く笑い出した。
胸の奥底から絞り出すようなその笑い声は、ひび割れて震え、こぼれ落ちる涙とともに、静まり返った廊下にいつまでも響いていた。
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