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灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る第1話

この話は約3319字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。

あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。

暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。

暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。

「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。

本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」

けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。

和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。

だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。

* * *

子どもは好きじゃないと言っていたはずの暁人が、妊娠や出産の本を熱心に読み込み、舞来の妊婦健診には毎回付き添って、ベビールームまで心を込めて整えるようになった。

そして火事が起きたあの日も。暁人は迷うことなく舞来を抱き上げ、炎の中を駆け抜けていった。

「暁人――ッ!」

和葉はかすれた声で夫の名を叫んだ。けれどその声は、燃え盛る炎の轟音にかき消されていく。

「助けて……私、ここにいるの……」

暁人の足が、一瞬止まったように見えた。立ち込める黒煙の向こうで視線が交錯し、その瞳に明らかな躊躇いがよぎるのを、和葉は確かに見た。

だが次の瞬間、舞来が彼の手をぎゅっと握りしめた。

「星山社長、早く外に出ましょう?私、怖くて……」

「大丈夫だ」

暁人の声は、残酷なほど優しかった。

「俺がついてる。家族3人で、必ず無事に出られる」

家族3人。

その一言が鋭い刃となって、和葉の胸を深々と貫いた。

暁人が舞来をかばいながら玄関へ走り出したそのとき、燃えさかる梁がまた1本崩れ落ち、今度は和葉の背中を直撃した。

薄れゆく意識の中、彼女の脳裏をよぎったのは、5年前の事故だった。

ひどい雨の日だった。レストランを出たばかりのふたりに向かって、制御を失ったトラックが歩道へ突っ込んできた。和葉はほとんど本能で、暁人を突き飛ばしていた。

下腹部から全身へと激痛が広がり、暁人が喉も裂けんばかりに自分の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。

目を覚ますと、医師から冷酷な宣告をされた。子宮の損傷がひどく、もう一生妊娠は望めない、と。

「別れよう」

退院の日、和葉は目を赤くして暁人に告げた。

「あなたは星山家の一人息子でしょう。跡継ぎが必要なはずよ」

あのとき、暁人はなんと答えたのだったか。

彼は和葉を病室の壁に押しつけ、息もできないほど激しく口づけた。

「和葉、俺はお前だけでいい!子どもがいないなら、ふたりで生きていけばいい!家のことは俺がなんとかする」

一族を説き伏せるため、暁人は本家の仏間で一昼夜正座を続け、家のしきたりに従って数えきれないほど竹刀で背中を打たれた。

母親は泣きながら嘆き、父親は怒りに任せて湯呑みを3つも叩き割った。

最後には祖父が深々とため息をつき、好きにしろと折れたのだった。

熱風の中、結婚式の日の光景がよみがえる。ベールを上げた暁人の目は、真っ赤に潤んでいた。

「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」

それなのに今、暁人は別の女を抱きかかえて「家族3人」と口にしている。

炎が、和葉の最後の意識を完全にのみ込んでいった。

わかった。それなら今度こそ、あなたたち「家族3人」の望みを、完全に叶えてあげる。

次に目を開けたとき、視界に映ったのは無機質な白い天井だった。

「……和葉、目が覚めたか」

すぐ横から暁人の声がした。顔を向けると、血走った目と深く寄せられた眉が見えた。

「まだ痛むか……?」

張り詰めた声でそう言いながら、暁人はそっと和葉の頬に触れた。

「軽いやけどと脳震盪だそうだ。でも心配いらない。フロアごと貸し切って、最高の医療チームを呼んである。絶対に傷跡など残させない……」

気遣うようなその眼差しを見つめているうちに、和葉はふと可笑しくなった。

火の海の中で迷わず「家族3人」を選んだ男が、今さら何を愛情深いふりをしているのだろう。

口を開くと、喉が焼けつくように痛んだ。

「暁人、私たち、離……」

「和葉」

暁人が不意に言葉を遮り、1枚の書類を差し出した。

「俺たち、離婚しよう」

和葉の全身がこわばった。

自分から切り出すつもりだったのに、まさか彼に先を越されるとは思ってもいなかった。

「といっても、あくまで一時的なものだ」

あらかじめ用意していたかのように、暁人は早口で続けた。

「舞来はあと1か月で出産する。生まれてくる子を嫡出子として届け出るには、実の両親が籍を入れていないといけないんだ。子どもが生まれたら、彼女とはすぐ離婚する。そうしたら俺たちはまた……」

「再婚するって?」

和葉は静かに言葉を返した。見えない手に、心臓をきつく握りつぶされるようだった。

「その通りだ!」

ほっとしたように、暁人の目が輝いた。

「彼女とはもう話がついてる。産んだら金を受け取って出ていく約束だ。子どもは……これから俺たちの子として育てよう。な?」

動き続ける彼の唇を見つめながら、和葉の体は芯から冷えていった。

「和葉?」

暁人が急かす。

「早くサインしてくれ。弁護士が手続きを待ってるんだ」

ペンを受け取る指先が震えた。

ペン先が紙に触れた瞬間、ひと粒の涙が「離婚」の二文字の上に落ち、じわりと滲んでいった。

暁人は気づかなかったらしい。

サインを済ませた書類をしまうと、身をかがめて額に口づけようとした。和葉は顔を背けてそれを避けた。

彼の動きが一瞬止まる。けれど何事もなかったように身を起こし、「和葉、もう少しだけ待っててくれ」とだけ言った。

ドアの閉まる音はごく小さかったのに、重い槌のように和葉の胸を打ちのめした。

待つ?

いや……もう、待つつもりなんてない。

和葉は点滴の針を引き抜き、痛む体を引きずって退院の手続きへ向かった。

産婦人科病棟の前を通りかかったとき、暁人の声が聞こえてきた。

「ゆっくりな。段差に気をつけて」

聞き慣れないほど優しい声だった。

「赤ちゃんは順調に育ってるって、先生も言ってたぞ」

「星山社長、ほら、聞いてみて……」

舞来の弾んだ声が続く。

「今、お腹を蹴ったんです!」

「どれどれ」

暁人の声には笑みがにじんでいた。

「こんなに元気なら、きっと丈夫な子になるな」

「もう名前まで考えてるんですか?」

「もちろん」

暁人は穏やかに言った。

「いくつか候補はあるよ。顔を見てから決めたいと思ってる」

和葉は冷たい壁にもたれかかり、爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。

5年前のあの雨の夜を思い出す。全身ずぶ濡れで和葉の家の前に立ち尽くした暁人は、血がにじみそうなほど目を赤くしていた。

「和葉、子どもができないならそれでいい。俺はお前さえいればいいんだ!

本当だ。子どもなんて好きじゃない」

それが今、暁人は別の女の前にひざまずき、期待に満ちた目で胎動に耳を澄ませている。

名前まで決めて……

暁人。子どもが好きだったのなら、どうしてあのとき私を選んだの……?

どうして、私じゃなきゃ駄目だなんて言ったの?

どうして……私を騙したの?

和葉は踵を返した。こぼれた涙が磨き上げられた床に落ち、音もなく砕け散った。

タクシーの中で、和葉は両親に電話をかけた。

「お父さん、お母さん。私、そっちに行こうと思うの」

電話の向こうで、両親はひどく驚いた様子だった。

「どうしたの?暁人くんとうまくいってたんじゃないの?まさか、何かひどいことをされたの?」

和葉は言葉に詰まった。

「ううん……ただ、もう愛してないだけ」

和葉は静かに付け加えた。

「だから、綺麗に終わりにしたいの」

電話を切ると、タクシーは役所の前で止まった。

「国外転出の手続きをお願いします」

和葉は窓口で必要書類を差し出した。

職員は内容を確認しながら尋ねる。

「転出日はこの日付でよろしいですか?」

「はい」

和葉は静かにうなずいた。

これで、国内の住民票からは住所がなくなる。

けれど戸籍まで消えるわけではない。ただ、ここで暮らしていた自分の生活に、ひとつ区切りをつけたような気がした。

これから先、この街に和葉という人間はもういない。

暁人、あなたの望みどおりにしてあげる。

私はあなたたち「家族3人」の世界から、跡形もなく消えるから。

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