灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る第1話
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結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。
あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。
暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。
暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。
「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。
本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」
けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。
和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。
だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。
* * *
子どもは好きじゃないと言っていたはずの暁人が、妊娠や出産の本を熱心に読み込み、舞来の妊婦健診には毎回付き添って、ベビールームまで心を込めて整えるようになった。
そして火事が起きたあの日も。暁人は迷うことなく舞来を抱き上げ、炎の中を駆け抜けていった。
「暁人――ッ!」
和葉はかすれた声で夫の名を叫んだ。けれどその声は、燃え盛る炎の轟音にかき消されていく。
「助けて……私、ここにいるの……」
暁人の足が、一瞬止まったように見えた。立ち込める黒煙の向こうで視線が交錯し、その瞳に明らかな躊躇いがよぎるのを、和葉は確かに見た。
だが次の瞬間、舞来が彼の手をぎゅっと握りしめた。
「星山社長、早く外に出ましょう?私、怖くて……」
「大丈夫だ」
暁人の声は、残酷なほど優しかった。
「俺がついてる。家族3人で、必ず無事に出られる」
家族3人。
その一言が鋭い刃となって、和葉の胸を深々と貫いた。
暁人が舞来をかばいながら玄関へ走り出したそのとき、燃えさかる梁がまた1本崩れ落ち、今度は和葉の背中を直撃した。
薄れゆく意識の中、彼女の脳裏をよぎったのは、5年前の事故だった。
ひどい雨の日だった。レストランを出たばかりのふたりに向かって、制御を失ったトラックが歩道へ突っ込んできた。和葉はほとんど本能で、暁人を突き飛ばしていた。
下腹部から全身へと激痛が広がり、暁人が喉も裂けんばかりに自分の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。
目を覚ますと、医師から冷酷な宣告をされた。子宮の損傷がひどく、もう一生妊娠は望めない、と。
「別れよう」
退院の日、和葉は目を赤くして暁人に告げた。
「あなたは星山家の一人息子でしょう。跡継ぎが必要なはずよ」
あのとき、暁人はなんと答えたのだったか。
彼は和葉を病室の壁に押しつけ、息もできないほど激しく口づけた。
「和葉、俺はお前だけでいい!子どもがいないなら、ふたりで生きていけばいい!家のことは俺がなんとかする」
一族を説き伏せるため、暁人は本家の仏間で一昼夜正座を続け、家のしきたりに従って数えきれないほど竹刀で背中を打たれた。
母親は泣きながら嘆き、父親は怒りに任せて湯呑みを3つも叩き割った。
最後には祖父が深々とため息をつき、好きにしろと折れたのだった。
熱風の中、結婚式の日の光景がよみがえる。ベールを上げた暁人の目は、真っ赤に潤んでいた。
「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」
それなのに今、暁人は別の女を抱きかかえて「家族3人」と口にしている。
炎が、和葉の最後の意識を完全にのみ込んでいった。
わかった。それなら今度こそ、あなたたち「家族3人」の望みを、完全に叶えてあげる。
次に目を開けたとき、視界に映ったのは無機質な白い天井だった。
「……和葉、目が覚めたか」
すぐ横から暁人の声がした。顔を向けると、血走った目と深く寄せられた眉が見えた。
「まだ痛むか……?」
張り詰めた声でそう言いながら、暁人はそっと和葉の頬に触れた。
「軽いやけどと脳震盪だそうだ。でも心配いらない。フロアごと貸し切って、最高の医療チームを呼んである。絶対に傷跡など残させない……」
気遣うようなその眼差しを見つめているうちに、和葉はふと可笑しくなった。
火の海の中で迷わず「家族3人」を選んだ男が、今さら何を愛情深いふりをしているのだろう。
口を開くと、喉が焼けつくように痛んだ。
「暁人、私たち、離……」
「和葉」
暁人が不意に言葉を遮り、1枚の書類を差し出した。
「俺たち、離婚しよう」
和葉の全身がこわばった。
自分から切り出すつもりだったのに、まさか彼に先を越されるとは思ってもいなかった。
「といっても、あくまで一時的なものだ」
あらかじめ用意していたかのように、暁人は早口で続けた。
「舞来はあと1か月で出産する。生まれてくる子を嫡出子として届け出るには、実の両親が籍を入れていないといけないんだ。子どもが生まれたら、彼女とはすぐ離婚する。そうしたら俺たちはまた……」
「再婚するって?」
和葉は静かに言葉を返した。見えない手に、心臓をきつく握りつぶされるようだった。
「その通りだ!」
ほっとしたように、暁人の目が輝いた。
「彼女とはもう話がついてる。産んだら金を受け取って出ていく約束だ。子どもは……これから俺たちの子として育てよう。な?」
動き続ける彼の唇を見つめながら、和葉の体は芯から冷えていった。
「和葉?」
暁人が急かす。
「早くサインしてくれ。弁護士が手続きを待ってるんだ」
ペンを受け取る指先が震えた。
ペン先が紙に触れた瞬間、ひと粒の涙が「離婚」の二文字の上に落ち、じわりと滲んでいった。
暁人は気づかなかったらしい。
サインを済ませた書類をしまうと、身をかがめて額に口づけようとした。和葉は顔を背けてそれを避けた。
彼の動きが一瞬止まる。けれど何事もなかったように身を起こし、「和葉、もう少しだけ待っててくれ」とだけ言った。
ドアの閉まる音はごく小さかったのに、重い槌のように和葉の胸を打ちのめした。
待つ?
いや……もう、待つつもりなんてない。
和葉は点滴の針を引き抜き、痛む体を引きずって退院の手続きへ向かった。
産婦人科病棟の前を通りかかったとき、暁人の声が聞こえてきた。
「ゆっくりな。段差に気をつけて」
聞き慣れないほど優しい声だった。
「赤ちゃんは順調に育ってるって、先生も言ってたぞ」
「星山社長、ほら、聞いてみて……」
舞来の弾んだ声が続く。
「今、お腹を蹴ったんです!」
「どれどれ」
暁人の声には笑みがにじんでいた。
「こんなに元気なら、きっと丈夫な子になるな」
「もう名前まで考えてるんですか?」
「もちろん」
暁人は穏やかに言った。
「いくつか候補はあるよ。顔を見てから決めたいと思ってる」
和葉は冷たい壁にもたれかかり、爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。
5年前のあの雨の夜を思い出す。全身ずぶ濡れで和葉の家の前に立ち尽くした暁人は、血がにじみそうなほど目を赤くしていた。
「和葉、子どもができないならそれでいい。俺はお前さえいればいいんだ!
本当だ。子どもなんて好きじゃない」
それが今、暁人は別の女の前にひざまずき、期待に満ちた目で胎動に耳を澄ませている。
名前まで決めて……
暁人。子どもが好きだったのなら、どうしてあのとき私を選んだの……?
どうして、私じゃなきゃ駄目だなんて言ったの?
どうして……私を騙したの?
和葉は踵を返した。こぼれた涙が磨き上げられた床に落ち、音もなく砕け散った。
タクシーの中で、和葉は両親に電話をかけた。
「お父さん、お母さん。私、そっちに行こうと思うの」
電話の向こうで、両親はひどく驚いた様子だった。
「どうしたの?暁人くんとうまくいってたんじゃないの?まさか、何かひどいことをされたの?」
和葉は言葉に詰まった。
「ううん……ただ、もう愛してないだけ」
和葉は静かに付け加えた。
「だから、綺麗に終わりにしたいの」
電話を切ると、タクシーは役所の前で止まった。
「国外転出の手続きをお願いします」
和葉は窓口で必要書類を差し出した。
職員は内容を確認しながら尋ねる。
「転出日はこの日付でよろしいですか?」
「はい」
和葉は静かにうなずいた。
これで、国内の住民票からは住所がなくなる。
けれど戸籍まで消えるわけではない。ただ、ここで暮らしていた自分の生活に、ひとつ区切りをつけたような気がした。
これから先、この街に和葉という人間はもういない。
暁人、あなたの望みどおりにしてあげる。
私はあなたたち「家族3人」の世界から、跡形もなく消えるから。
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