永遠に、お前を失った第3話
この話は約2294字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
あの時のことは、今でも忘れられない。
病室の外に現れた冬真の、あの冷たい声――
「……よかったんじゃないか。もともと、いるはずのなかった子だ」
それ以来、私たちはまるで何かの「了解」を交わしたように、互いに干渉しなくなった。
彼はそのままプレイボーイを続けた。
稲留家が……完全に潰れさえしなければ、それでいい。
彼がどれだけ恋人を作ろうが、結婚さえしなければ、それでいい。
少なくとも――「命」に関わるようなことが起きなければ。
……なのに、約束を破ったのは、冬真の方だった。
稲留家はもう、とっくに両親を失い、空っぽの殻だけが残ってる。
もう、無理して守る意味なんてなかった。
私の額には熱がこもり、車窓にもたれかかると、吐息すら火照っている。
冬真は凛花を落ち着かせると、戻ってきて私の側へ。
ドアを開け、私の手を取って首の後ろにまわし、そのまま抱きかかえるようにして救急へ向かった。
彼の肩越しに、私は凛花の表情を見た。
鼻をすすりながら、私の方を憎らしげににらみつけていた。
すれ違うとき、彼女は彼の服を掴もうとした――けれど、それも空振りだった。
冬真は迷いのない足取りで進む。
どんな名彫刻家でも再現できない、その整った顔に険しい影を浮かべて。
彼はいつも、私に「錯覚」をくれる。
どれだけ他の誰かに傾いても、いずれは、私の元に帰ってくるんじゃないか――って。
でも、今回は違った。
私は首を小さく振る。
目が覚めたのは、今度こそ私の方だった。
「……冬真、私たち、離婚しよう」
その言葉に、彼の歩みが一瞬止まる。
けれど視線は、私に向けられなかった。
「……え?」
「離婚、してくれる?」
彼の顔には、複雑な感情が交錯していた。
重く沈んだ表情から、困惑、そして――やがて苦笑。
「もう少し待てばよかったんじゃない?あと数年すれば……」
彼は私をひと目見て、口元をゆがめた。
その笑みに込められていたのは、からかいの色。
「俺が更生して、まともになるかもよ?」
私も笑った。けど、目の奥がじんわり熱くなる。
たぶん、熱がまた上がってきたんだと思う。
「……そしたらどうしようね?新鮮味もないし――じゃあ、兄妹ってことで仲良くしよっか?」
その瞬間、冬真の顔がピクリと固まった。
噛みしめた奥歯にぎゅっと力が入って、頬の筋肉が引きつる。
「……まだ『新鮮味』足りない?」
視界がじんわり滲んでいく中、私は無理に笑みを浮かべ続けた。
「最初から結婚なんてすべきじゃなかったんだよ。
あなたが昔言ってた通りにしておけばよかった。
『心音?笑わせんな!兄妹のほうがまだいいかも』」
でも――冬真は、そもそも私と兄妹ごっこをする必要なんてなかった。
この十年、稲留家はずっと九条家に世話になりっぱなしだった。
すでに「お荷物」以外の何者でもなかった。
だから、私たちが離婚するって噂が広まったとき――
九条家の誰もが、どこかホッとしたような顔をしていた。
私は高熱を抱えたまま、意識が朦朧とする中で離婚届にサインした。
そしてそのまま、丸二日昏睡した。
目を覚ましたとき、ベッドの脇に置かれた書類の最後のページに――
冬真の名前が加わっているのを見て、私は数秒間、呆然とした。
そして、その茫然の奥に、少しだけ罪悪感が生まれた。
あの離婚協議書は、決して誠実なものではなかった。
潔くなんて、到底言えなかった。
この十年、彼の元カノたちの「後始末」をするたびに、彼からの送金があった。
私はそれを一筆一筆、きちんと貯めてきた。
そして今、財産分与の項目にも、あらかじめいくつも逃げ道を作っておいた。
冬真ほど頭の回る人間が、私のこの「がめつさ」に気づかないはずがない。
それでも、彼は何も言わずに、すぐにサインしてくれた。
……どこか、胸の奥が虚しくなった。
もしかしたら、冬真はずっと――
私から「離婚しよう」って言い出すのを、待ってたのかもしれない。
お金で全部片づけられるなら、この先また十年、だらだらと一緒にいるより、ずっとマシだったんだろう。
熱がようやく引いた頃、
私はまだ少しふらつく体で、荷物をまとめはじめた。
十年分の結婚生活を片づけてみれば、スーツケースふたつ。どちらもパンパンにはならなかった。
階下へ降りると、家の中と外で、執事と運転手がこちらを見ていた。
「おく……稲留さん、旦那様に、出て行かれるって伝えましょうか?」
私は首を振った。
「いいわ。伝えなくて」
誰も「さようなら」とは言わなかった。
誰も近づいてきたりもしなかった。
ただ、ほんの数秒だけ時が止まり、そして、またいつものように彼らは持ち場へ戻っていった。
……寂しくはなかった。
彼らですら、とっくに分かってたのだ。
私は――この家の中で、ずっと「仮住まいの人間」だったって。
九条家の門をくぐって車が走り出すとき、私は一度も振り返らなかった。
幼いころから積み重ねてきた記憶たちが、ようやくここで、終わりを迎えた。
しばらくの沈黙の中で、運転手がふいに聞いてきた。
「……ハンカチ、いりますか?」
その時になって、私は自分の顔が涙で濡れていることに気づいた。
――解放されたはずなのに。
でも、檻の中に長くいた鳥は、
急に自由になったって、すぐには飛び立てないものなんだ。
空港について、搭乗手続きを終えたあと、私はすぐにカードも切り替えた。
そして機内に乗り込むと、深い眠りに落ちた。
この数日間、私はずっと――
どうしようもない眠気に取り憑かれていた。
何かが崩れて、重心を失ったように。
現実の中ではもう、傷を隠すこともできないから、せめて夢の中だけでも、静かに痛みを抱いていたかった。
十数時間のフライトの果て、ようやく私は――
海の向こうの異国の地に、降り立った。
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