水無月の彼方へ第1話
この話は約2542字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
路地裏に引きずり込まれ、無残な一晩を明かして帰宅した私を待っていたのは、目を血走らせた夫だった。彼は犯人を刺し、その報復として獄中で命を落とした。
弁護士である姉の如月澪(きさらぎ みお)は私の弁護を引き受けたが、車にはねられ植物状態になってしまった。
誰もが、2人は私に巻き込まれたのだと責め立てた。本当に死ぬべきだったのはお前だ、と。
私、如月紬(きさらぎ つむぎ)は仕事を解雇され、両親からは家を追い出された。
この5年、私は両足を折られ、食道の半分を失った。鼻からのチューブでしか命を繋げない体になっても、真相を暴くことだけは決して諦めなかった。
また新たな手がかりを得て、海を渡って調べに行こうとしたその日、母が仕方なさそうに私を引き止めた。
「紬、もう調べるのはやめなさい。陸くんは生きているわ。でもね、彼はもう澪と結婚したのよ」
私はその場に立ち尽くし、母は私の視線を避けた。
「5年前、私たちは彼の偽装死に協力したの。澪だって、植物状態なんかじゃなかった」
「2人は湊市(みなとし)で幸せに暮らしているわ。子供も産まれたのよ。昨日、私とお父さんに写真が送られてきたわ。だから、もう邪魔しないでちょうだい」
全身の震えが止まらなかった。
「お母さん、私を慰めるために嘘をついてるんでしょ?」
母は冷たい顔のまま、スマートフォンのロックを解除した。
待ち受け画面には、神崎陸(かんざき りく)が姉の手を引き、小さな女の子を胸に抱いて、眩しいほどに笑っている姿があった。
「2人は美男美女で、あなたよりもずっとお似合いよ。
姉さんがあなたの代わりに5年間も陸くんの世話をしてくれたのよ。身を引いてあげられないの?
来週、2人は結婚式を挙げるわ。親戚もみんな行くの。だから、騒ぎを起こさないで」
私は掌をきつく握りしめ、ボロボロと涙をこぼした。
なんと、私以外の全員が真実を知っていたのだ。私一人だけが、ずっと騙されていたのだ。
* * *
「どうして!」
私は自分の鼻の傷跡を指差した。
「2人の死の真相を調べるために、私は足を折られた!食道に漂白剤を流し込まれて、今でもこの管からしか食事ができないのに!
5年よ!私が人間とも思えないような惨めな姿で生きているのを黙って見ていて、胸が痛まなかったの?」
涙が零れ落ちる。私は母を睨みつけ、その顔から何か答えを見つけ出そうとした。
母は顔を背け、冷酷な声を出した。
「じゃあ、どうしろって言うの!どちらも私がお腹を痛めて産んだ娘なのよ。陸くんと姉さんが土下座して一緒になりたいと頼み込んできて、その時初めて2人が生きていると知ったの!
姉さんは昔から体が弱くて、ショックに耐えられないわ。あなたに隠すしかなかったのよ!」
母は振り返り、私の手を掴んで口調を和らげた。
「あなたが恨む気持ちも分かるわ。でも、もう終わったことよ」
「湊市で子育てをして、2人も苦労しているの。私とお父さんも会いに行けないでいるわ。だから、知らなかったことにしてくれない?」
母はなだめるように言った。
「お母さんが叔母さんに頼んで、またいい縁談を見つけてもらうから」
私は喉がカラカラに乾くのを感じながら、母の手を力いっぱい振り払った。
「お母さん、あなたの目に、私という娘は映っているの?
姉さんが土下座して頼んできたって言うけど、私はどうなるの?私が陸のお墓の前でショックで倒れるまで泣き続けて、ビルから飛び降りて後を追おうとした時、真実を教えようと一度でも思ってくれた?
お母さんは、今まで一度だって私の味方をしてくれたことはなかった」
母は顔色が真っ青になり、胸を押さえてソファに倒れ込んだ。
「私を殺す気なの?!自分が男を繋ぎ止めておけなかったくせに、私のせいにするの?
姉さんは小さい頃から、何だってあなたより優秀だったじゃない!陸くんが姉さんを好きになるのは当たり前でしょ?
どうしてそんなに執着して、みんなの生活をぶち壊そうとするのよ!」
耳の奥で激しい耳鳴りがした。
「裏切ったのはあの2人よ!姉さんが泥棒猫になって私の夫を奪ったのに、私が感謝でもしろって言うの!」
「いい加減にしろ!」
ドアが押し開けられ、父が苛立たしげな目を向けてきた。
「じゃあどうしたいって言うんだ!あいつらはもう籍も入れて、子供もいるんだ。澪が泥棒猫だと言うなら、今から騒ぎ立てようとしているお前こそが泥棒猫じゃないか!」
私は青ざめた顔で、姉を庇う両親の姿を見つめ、不意に笑い出した。
「あいつらの口から直接説明させるわ。じゃないと、2人の人生をめちゃくちゃにしてやる!」
部屋に戻ると、私はドアに寄りかかったまま床にへたり込んだ。
壁に飾られた結婚写真の中では陸が笑い、机の上には彼の遺影があり、クローゼットにはまだ彼のシャツが掛かっている。
5年間、私は彼の写真を抱きしめて夜明けまで泣き明かし、彼の無念を晴らすと誓ってきた。
それが、すべて嘘だったのだ。
私は陸とのLINEのトーク履歴を開いた。
【陸、会いたいよ。胸が張り裂けそう。
もう生きていけない。そっちへ行ってもいい?
あなたと姉さんの仇は、私が絶対に討つから】
私の独り言のようなメッセージに、彼から返信が来ることは一度もなかった。
【全部知ったわ。終わりにしましょう】
今回は、向こうから即座に返信があった。
【わかった】
翌日、部屋の外から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お義父さん、お義母さん。澪はスーパーで少し買い物をしてから、後で上がってきます」
陸が声を潜めて言った。
私は勢いよく部屋のドアを開け、彼と視線を合わせた。
彼は背が高くなり、痩せて、以前よりも落ち着いた雰囲気を纏っていた。
私の経鼻チューブに視線が落ちると、彼は言葉を失った。
「紬、それは一体何だ?」
私は無理に笑みを作った。
「満足した?私があなたの後を追おうとして死にかけたり、真相を調べるために食道まで切られたりしたのを見て。これが、あなたの望んだ結果?」
彼の瞳の奥にあった罪悪感は瞬時に消え失せ、嫌悪の色に変わった。
「紬、お前のその嘘をつく癖は相変わらずだな。
拉致だの傷害だの、お前が調べるのを止めさせるために、俺が奴らを雇ったんだ。あいつらがお前に手を出せるわけがないだろ。
自分で勝手に怯えてただけだろう。何でも俺のせいにするな」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)