母の死を境に、私は愛という名の檻から逃げ出した第2話
この話は約2650字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
電話を切ってから、まだ十分も経っていない。
階下から、アントニオの足音が慌ただしく響いてきた。
珍しいこともあるものだ。
以前、私が四十度の高熱を出した時でさえ、彼はエレナに解熱剤を届けさせただけだったのに。
やはり、エレナのことが絡まないと動かないらしい。
彼はスーツも脱がないまま寝室に踏み込み、一直線に歩み寄ってくる。
その目は冷たく沈んでいた。「俺からの電話を切る度胸があるとはな?」
私は視線も上げず、淡々と服を畳む。「出たくなかっただけよ」
次の瞬間、手首を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。
「黙れと言ったからか?エレナは大口の契約をまとめたんだ。ドンとして幹部を連れて祝う、それの何が悪い?」
彼の声は次第に荒くなり、怒気を帯びていく。「どれだけの人間が見ていたと思ってる?中には、あいつが俺の愛人だと噂する連中までいる!エレナは体面を重んじる。お前にあんな皮肉を言われて、その場で泣いて倒れたんだぞ!」
「……ふーん」私は首を傾げた。
何に怒っているのか、本気で分からなかった。「それ、私に何の関係があるの?私は彼女の保護者じゃないわ」
彼は呆れたように、しかし苛立ちを含んだ笑みを漏らした。
私はゆっくりと言葉を継ぐ。「みんなが彼女に忠告したのは、彼女の振る舞いに問題があるって思われてるからでしょ?」
「いい加減にしろ!」
突然の怒声に、廊下にいたボディガードたちでさえ一歩退く。
「エレナはファミリーのコンシリエーレだ。彼女が日々扱う金額は、お前が一生で目にする額を軽く超えている。その庇護の下で贅沢な生活をしているくせに、俺の右腕を貶すのか?」
その視線には、失望と非難がはっきりと浮かんでいた。
「屋敷で何百人もの使用人に世話をされて、外で働く苦労も知らない。俺が甘やかしたせいで、嫉妬から、ずっとお前を世話してきたエレナを中傷するようになったんだな。
次はない。次があれば――お前の母親の薬は止める」
私は彼の見下ろす顔を見つめたまま、ふいに甲高い笑い声を上げた。「贅沢な生活?」
彼は眉をひそめ、狂人でも見るような目を向けてくる。
私は彼の手首を掴み、力任せに引きずってドレッシングルームへ連れて行った。
そこには、豪奢な衣装がずらりと並んでいる。すべて、ガラスケースに鍵をかけられたまま。
「これを見て!」鍵を指差す指先が、怒りで震える。「ドレスから靴下まで、一着たりとも私の自由にならない。教えてちょうだい、アントニオ。どこの奥様が、下着ひとつ着るのに申請が必要なの?」
彼は顔をしかめた。「お前がいつも場にふさわしくない服を選ぶからだ」
「ふさわしくない?」私は冷笑した。「『不適切』と却下されたドレスは、翌日には全部エレナが着てるのよ。どんな安っぽい愛人だって、ここまで惨めな扱いはされないわ」
――十分伝わったはずだった。
けれど、彼の目に浮かんでいるのは困惑と苛立ちだけ。
「だから、公の場で恥をかかせたのか?たかが数着のドレスで?視野が狭すぎる」
全身から力が抜け、目の前がぐらりと揺れる。
私は背を向けた。声にはもう何の感情も乗っていない。「どう思おうと勝手よ。どうせ離婚するんだから」
その一言が、彼の逆鱗に触れた。
アントニオは数歩で追いつき、私を抱き込むように拘束する。「言葉に気をつけろ。誰が、お前の母親に最高の医療チームを用意してやったと思っている?」
唇を強く噛み、涙をこらえる。
本当に滑稽だ。最高の医療を与えながら、私の母がもう死んだことすら知らないなんて。
「離して」震える声で言う。「私は出ていく」
アントニオはふっと笑った。「離婚?それでどうする。あのギャンブル狂の父親に、次のマフィアにでも売り飛ばされるのか?」
その言葉は、刃のように胸を抉った。
三年前――
父が高利貸しに借金を残し、病気の母を捨てて逃げたせいで、私はこの結婚を受け入れるしかなかった。
正確には、借金のカタとして、「おもちゃ」のようにアントニオのベッドへ送り込まれたのだ。
それが私の最大の傷だと知っていながら、彼は今、それを容赦なく抉り返す。
「少なくとも、次はあなたじゃない」私はもがきながら言う。「書類にはもうサインしたわ」
彼は身を屈め、耳元で囁く。
その温もりが、逆に全身を凍らせた。
「離婚が、お前の一存でできると思うな。
覚えておけ、ベイビー。ドンの妻が婚姻を終える方法は、一つだけだ」
――死。
言外の意味は、はっきりしていた。
「クローゼットは自由に使っていい。金も、今後は毎月五万ユーロを俺の個人口座から振り込む。申請は不要だ」
いつものやり方。叩いてから、飴を与える。
そうして、また従順な「いい子」に戻らせる。
以前の私なら、きっと泣いて感謝していた。
でも、もう違う。
お金や服が問題の本質なの?
本当に罰せられるべきエレナのことは、彼は見て見ぬふりをするくせに。
「いらない」私は冷たく言い放つ。「あなたのお金なんて」
アントニオは目を細めた。「母親が薬を断たれて死ぬのを見たいのか?」
また、それ。
胸が締めつけられる。それでも表情は崩さない。「母は、きっと理解してくれるわ」
予想外だったのだろう。
ほんの一瞬、彼の瞳に動揺が走った。
これまで何度も効いてきた脅しが、なぜ今回は通じないのか理解できない、という顔。
だが、ドンのプライドが、何度も譲歩することを許さない。
彼は、振り返りもせず玄関へ向かう私を見つめる。
今回は、誰も私を止めなかった。
ボディガードたちは、ただアントニオの命令を待っている。
彼は手を上げた。
「止めろ」と出しかけた合図を、無理やり「通せ」に変える。
そういえば、一度本部に行った時、エレナが彼にこう言っていた。
「最近、奥様は恋愛ドラマに夢中のようですね。いつか悲恋ヒロインの真似をして、離婚騒ぎを起こすかもしれませんよ?
その時は、数日放っておけばいいんです。外の世界の厳しさを思い知れば、泣いて戻ってきますから」
きっと、今も同じことを思っているのだろう。
……
その細い背中が完全に見えなくなって、ようやくアントニオは我に返った。
苛立たしげに煙草を探すが、手に触れたのは小さな紙包み。
中には、ミントの飴がいくつか入っていた。
彼はヘビースモーカーで、喉をよく痛めていた。
だから私は、何百通りも試して飴を作った――少しでも楽になるように。
一つ口に含む。
ひんやりとした甘さが広がり、彼の眉間の皺がわずかにほどけた。
「……好きに遊ばせておけばいい」
アントニオはそう思う。
たかが飴ひとつに、ここまで心を砕く女だ。
俺を愛していないはずがない。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)