死んで五年、兄はまだ私があの子に謝るのを待っている第3話
この話は約2012字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
だから私は、兄のためなら全部我慢しようと決めた。
たった半年で、兄に言われなくても、いいものは自分から真奈に譲るようになった。
真奈が欲しいものも、やりたいことも、絶対に取り合わない。
だがその代償は大きかった。私はうつ病になった。
病院を受診したときにはすでに重度と診断された。
カウンセラーには、両親を亡くしたときから、心の中にはすでにうつの種があったのだと言われた。
真奈の存在は、その種を芽吹かせるきっかけになっただけなのだと。
私は次第にぼんやりしている時間が増え、笑うことも少なくなった。
兄に「どこか遊びに行こう」と誘われても、何もする気になれなかった。
そんな状態が続くうちに、兄も苛立つようになった。
私のことを冷たい人間だと言った。心が狭い、真奈が幸せになるのが気に入らないんだろう、と。挙げ句の果てには、俺にまでそんな態度を取るのかと責められた。
説明したかったが、何から話せばいいのか分からなかった。
それから兄との関係はどんどん悪くなっていった。
そして今では、お互い意地になって、どちらからも折れられないところまで来てしまった。
私は由衣の家へ向かった。由衣の家までは本当に遠かった。
三時間も歩き続けたせいで、足には靴ずれができて血まで滲んでいた。
由衣は傷に薬を塗りながら、怒ったように言った。
「何なの、あのお兄さん。どう考えてもおかしいでしょ!もう帰らなくていいよ。ここにいればいいから!」
私は由衣に笑いかけながら、胸の奥の苦しさを必死に押し込めた。
「でも帰るよ。きっと何日もしないうちに、お兄ちゃんが迎えに来てくれるから」
もうすぐお正月だった。生まれてから今まで、私たちは一度だって離れて年を越したことがない。
だから信じていた。兄だって私と離れたままではいられないはずだと————
秘書の声がそこで途切れた。少し間を置いてから、彼女は口を開いた。
「松井社長、このページはここまでです」
直哉は手の中のペンを弄びながら、嘲るような笑みを浮かべた。
「よくもまあ、ここまで話をすり替えられるな。真奈のことが気に入らなくて嫌がらせしてたのは自分のくせに、今度は真奈にいじめられたことにするのか。やっぱり、あのとき家から追い出したのは正解だったな」
そう言って、直哉は冷たい目を秘書に向けた。
意図を察した秘書は、慌てて次のページをめくり、再び読み始める。
……
2020年12月26日。今日から仕事を探し始めた。
由衣の家だって、決して裕福なわけじゃない。いつまでも養ってもらうわけにはいかない。
でも何社受けても採用してもらえなかった。
学歴も職歴も、応募条件はすべて満たしている。なのにどうしても面接で落とされてしまう。
最後に受けた会社の面接官は、優しそうな女性だった。
思い切って聞いてみた。
「お給料はそんなに高くなくても大丈夫です。月に15万円くらいあれば、何とか生活できます」
その人は気の毒そうに私を見ると、意味ありげに言った。
「もう仕事を探すのはやめたほうがいいと思う。この街じゃ、あなたを採用する会社はないから。上から話が回ってるの。『松井紗良という人間を雇うな』って」
私は呆然とした。会社を出てしばらくしてから、ようやく意味が分かった。
そんなことができる人間は一人しかいない。兄だ。
真奈に謝らせるために、私が仕事に就けないよう手を回したんだ。
でも私は何も悪くない。どうして謝らなきゃいけないの?
「ふっ……」
突然直哉が鼻で笑った。
「つまり紗良は、最後まで自分は悪くないと思ってたわけか。俺に謝らされたとでも思ってるんだな。少しは世間の厳しさを知ればいいと思っただけなのに、まったく分かってなかったらしい。こんなものまで書いて、可哀想なふりをして金でもせびるつもりか?」
秘書は直哉をちらりと見た。何も言わず、次のページをめくる。
今度は、その声が少し重くなっていた。
「2020年12月28日。今日、私はお兄ちゃんに会いに家へ戻った」
……
私はお兄ちゃんに会いに家へ戻った。雪が降りそうだったから。
毎年冬になると、どれだけ忙しくても、兄は必ず私と雪だるまを作ってくれた。
一緒に雪合戦をして、二人で雪の上に寝転んで、くるくる舞いながら落ちてくる雪を眺めた。
お兄ちゃんに会いたい。
もう私が謝ればいい。いつまでも人の家に居候しているわけにもいかない。
たった一言、謝れば済むことだ。少し甘えれば、きっとお兄ちゃんだって許してくれる。
そう思って帰ったのに、使用人から、兄は真奈と世界一周旅行に出たと聞かされた。
出発するとき、兄はこう言い残したらしい。私から連絡が来ても取り次ぐな、もう顔も見たくない、と。
お兄ちゃんは私を捨てたんだ。
……
そのページは驚くほど短かった。秘書はすぐに読み終えた。
直哉は手にしていたペンを乱暴に机へ叩きつけた。
「俺がいつそんなことを言った!今度は俺まで悪者にするつもりか!
続けろ!紗良が次は何を書くのか、最後まで聞いてやる!」
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