死んだはずの夫に、もう愛はなかった第2話
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私は何でもないように鼻の下を拭った。
顔から血の気が引いているのが、自分でもわかった。
それでも小さく笑い、首を振る。
2年前。
闇カジノで立て続けに殴られ、私はとうとう意識を失った。
倒れていた私を蹴り起こしたオーナーは、こともなげに言った。
「医者が言ってたぞ。お前、がんだってな。もう治らないらしい。死ぬ前にせいぜい客の相手でもして、少しは稼いでくれよ」
その後、私はオーナーのベッドに送り込まれた。
妊娠すれば、流産するまで殴られる。
そうして稼いだ金で、痛み止めを買った。
最後に残った金は、たぶん骨壺を買うために消える。
鼻血を急いで拭い、汚れていないほうの手を差し出した。
いつもの作り笑いを浮かべた。
「600円です。お支払いはどうされますか?」
直人は、ぼろぼろになった私をじっと見つめていた。
握りしめた拳に、さらに力がこもる。
「お前、いったい……」
「まだ私たちのこと、怒ってるんだと思う」
結衣が申し訳なさそうに口を挟んだ。
そして600円を支払うと、私の手を取った。
「お姉ちゃん、もう家に帰ろうよ。お金なら家にいくらでもあるんだから」
口元には愛らしい笑みを浮かべながら、指先で私の手を強くつねった。
思わず、その手を振り払った。
すると直人が、すかさず結衣の前に立った。
「何かあるなら俺に言え。結衣には手を出すな」
母も、かつて友人だった人たちも、警戒するような目で私を見ている。
まるで、私だけが何をするかわからない危険人物みたいだった。
一瞬だけ呆然としたあと、私はそのまま個室を出た。
背後から、直人の怒鳴り声が飛んでくる。
「本当に帰らないつもりか?だったらもう二度と帰ってくるな!」
振り返らなかった。
医師から告げられた余命は、あと1週間。
どこにいようと、同じことだ。
翌日も、いつもどおり店へ向かった。
だが入り口で、支配人に呼び止められた。
「明日から来なくていい。神谷さんが違約金を払った。お前を雇うなってさ」
支配人は煙草の煙を吐き出しながら、面倒そうに私を見た。
「何やったんだよ。神谷さん、お前のこと相当嫌ってるみたいだぞ。もう適当にどっかで死ぬ場所でも探したら?」
私は必死に支配人の服をつかんだ。
必死のあまり、声が裏返った。
「クビにしないでください。まだ骨壺を買うお金を稼がなきゃいけないんです。どうしても辞めさせるなら、せめて今まで働いた分の給料を払ってください!」
次の瞬間、腹を強く蹴られた。
「酒運ぶ仕事がそんなに好きか?死ぬなら勝手にどっかで死ね!」
そう吐き捨てられ、私は店の外へ放り出された。
ふらつく足で、地下にある安アパートへ戻った。
ところが部屋の前まで来ると、私の荷物が廊下にめちゃくちゃに放り出されていた。
大家が入り口を塞ぎ、汚いものでも見るような顔で私を睨む。
「さっさと出てってくれ!これ以上、厄介事を持ち込まれちゃ困るんだよ!」
痩せ細った手の中には、残りわずかな薬だけがあった。
私みたいな人間が、いったい誰にどんな迷惑をかけるというのだろう。
顔を上げる。
街頭の大型ビジョンには、直人と結衣の結婚式を告知する映像が映し出されていた。
通りすがりの人たちが、興奮した声を上げている。
「神谷さん、婚約者のために6億円もするウェディングドレスを用意したんだって。すごくない?」
「結婚式も楽しみ。総額60億円らしいよ。もう別世界だよね。結衣さん、幸せだなあ」
……
私はポケットの中を探った。
残っていたのは、726円。
これでは、一番安い痛み止めさえ買えない。
そのとき、スマホに葬祭用品店から催促のメッセージが届いた。
【骨壺ひとつ買うのに、いつまで支払いを引き延ばすつもりですか。残金を早くお支払いください】
未払い額――1万600円。
病気の痛みには、ずっと涙ひとつ見せずに耐えてきた。
なのに、大型ビジョンに映し出される華やかな結婚式の映像を見ていると、急に涙が止まらなくなった。
震える手で、直人に電話をかける。
「どうして……私を店からも、部屋からも追い出したの?」
ところが電話の向こうから聞こえてきたのは、物が激しく壊れる音だった。
直人は取り乱したように怒鳴った。
「俺に言えって言っただろ!わざと惨めなふりをして、結衣を不倫相手みたいに叩かせて……それで満足か?」
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