和紙文死んだはずの夫に、もう愛はなかった · 第1話設定≡

死んだはずの夫に、もう愛はなかった第1話

この話は約1781字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

実家が破産し、その巻き添えで夫の神谷直人(かみや なおと)は借金取りに川へ沈められ、命を落とした。

借金を返すため、私・水野千紗(みずの ちさ)は闇カジノで殴られ役として働いた。

一発殴られるたびに、もらえるのは1000円。

そんなある日、VIPルームへ酒を運ぶよう命じられた。

わずかに開いたドアの向こうには、死んだはずの直人が上座に座り、高級ワインをゆっくりと傾けていた。

「千紗とはもう3年以上会ってないな。今頃、どうしてるんだろう」

破産したはずの母は、きらびやかな宝飾品を身につけたまま、ため息をつく。

「どうせどこかに身を隠して、何年か泣いて暮らしてるだけよ。そのうち立ち直って、別の人と再婚するでしょ。

とにかく、あなたが死んだとあの子が信じてさえいれば、結衣と安心して暮らせるんだから」

大野結衣(おおの ゆい)は、母と昔の恋人との間に生まれた娘だ。

部屋を見渡せば、そこにいるのは見覚えのある顔ばかりだった。

かつて親友だと思っていた人たち。

そして、直人を死に追いやったはずの「仇」まで、そこにいた。

何もかも、最初から仕組まれていたのだ。

芝居ではなかったのは、地獄のような私の3年間だけだった。

私は20本のビールを載せたトレーを手に、静かに笑い、首を振った。

あと1万円。

骨壺を買う金さえ貯まれば、もうみんな自由だ。

* * *

いつものように帽子を目深にかぶり、ビールを1ダース、テーブルに置いた。

次の瞬間、冷たい手に手首をつかまれた。

「千紗?」

水を打ったように静まり返った個室で、全員の視線が私に集まった。

反射的にさらに顔を伏せた、そのとき。

帽子を乱暴に取り払われた。

隠していた顔が、あらわになった。

「本当に千紗なのか?なんでこんなところで働いてる?」

直人の視線が痛いほど突き刺さった。

直人の顔を最後に見たのは、3年前だった。

川の中でもがき、必死に水面へ顔を出そうとしていた直人の姿がよみがえる。

借金取りの手からようやく逃れ、私が川へ飛び込んだときには、直人はもう息をしていなかった。

死んだのだと思っていた。

だから毎月どうにか6000円を捻出しては、霊園へ墓参りに通っていた。

それなのに今、直人は何事もなかったかのように目の前にいる。

不思議なくらい、胸の内は静かだった。

私は黙ったままビールを注いだ。

すると母が、いきなり私の腕を引き寄せた。

「何年も家に帰ってこないと思ったら、こんなところで働いてたの?電話の一本くらいできなかったの?」

今でも覚えている。

床に押さえつけられ、殴られていたあの日。

真っ先に母へ電話をかけた。

けれど、電話の向こうから聞こえてきたのは、楽しげなバースデーソングだった。

「結衣、お誕生日おめでとう!」

あの日は、私の誕生日でもあった。

3年。

誰一人、私を捜そうとはしなかった。

私は何も答えず、丁寧に頭を下げてから手を差し出した。

「お客様、ビール代は600円です。お支払いはどうなさいますか?」

直人が固まった。

まるで見知らぬ人を見るような目で、私を見つめている。

無理もない。

3年前までの私は結衣と同じように、高価な服を着て、金の心配など一度もしたことがなかった。

直人が強く私の手首をつかんだ。

眉間に深いしわが刻まれた。

「千紗、この3年で何があった?なんでこんな生活してるんだよ」

何をもって「こんな生活」と言うのか、私にはわからなかった。

ただ、生きるには金が必要だった。

治療費を稼ぎ、いつか帰るための旅費も貯める。

それに毎月、直人の墓参りへ行く金も必要だった。

でも、もうその分はいらない。

これからは全部、自分の薬代に回せる。

少しでもいい薬が買える。

直人はしばらく私を見つめ、やがて手の力を緩めた。

「……お前、俺と結衣のこと、とっくに知ってたんだろ?隠してたのは、お前を傷つけたくなかったからだ。今年中には、ちゃんと話すつもりだった」

母も続けて口を開く。

「二人は本当に愛し合ってるの。仕方がなかったのよ。あなたは思い詰めると何をするかわからないから、取り返しのつかないことになったらって、みんな心配してたの」

直人は結衣の手をしっかり握っていた。

まるで長年寄り添ってきた恋人同士のように。

周りの人たちまで、厄介者を見るような目を私に向けている。

そのとき突然、鼻の奥が熱くなった。

次の瞬間、温かいものがつうっと流れ落ちる。

結衣が甲高い声を上げた。

「お姉ちゃん、鼻血!」

縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)