歳々安らかに第3話
この話は約1515字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
一平は出たあと、一度だけ後ろを振り返り、隣の狭い物置部屋へと足を向けた。
その瞬間、白くて華奢な手が彼のネクタイを掴み、勢いよく中へと引きずり込んだ。
次の瞬間、美奈子が一平の胸元に飛び込み、言葉もなく唇を重ねた。
仕切りの向こうからは、激しい吐息と唇が交わる音が延々と響いていた。
梨央はその扉の外に立ち、やがて美奈子の甘ったるい声を聞いた。
「ふん、奥さんと一緒じゃなかったの?なんでここに来るのよ」
彼女が梨央のことに触れた瞬間、一平の顔から色気が引き、表情が沈んだ。
「彼女の前に現れるなって言ったはずだ。俺の言葉、まだ伝わってないのか?」
美奈子は目を潤ませ、ふくれっ面で言い返した。
「だって、すぐにあなたのこと見つけちゃったんだもん。
褒めてくれなくてもいいけど、怒ることないでしょ?二人一緒にいるなんて知らなかったのよ」
彼女は一平に寄りかかりながら、指先で彼の胸元をなぞっていた。
その指が肌に触れるたびに、自分の存在を彼にねだるような気配が伝わってくる。
確かに、それは偶然だった。だから一平も深くは追及しなかった。
彼は自然な流れで彼女の腰を抱き寄せると、声を低くして囁いた。
「よしよし。ちゃんとご褒美をあげるよ。な?ほら、脚を開いて……」
やがて、服の擦れる音とともに、扉が小さく揺れ始めた。
時おり、美奈子のか細い声が漏れてくる。
「や……やさしくして……」
扉を隔てただけなのに、梨央にはまるで別世界の出来事のように感じられた。
知っていたはずなのに、心を鋭い刃で何度も刺されるように苦しくて、呼吸さえうまくできなかった。
彼女は胸を押さえ、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。
ふと、一平との最初のキスを、思い出した。
それは年越しの夜、人混みで賑わう宴会場をこっそり抜け出したときだった。
海辺には多くの人が集まっていて、誰かに押されるようにして、梨央は一平の胸元へと倒れ込んだ。
彼女の目を見たとき、一平は動揺を隠せなかった。
潤んだ唇は危ういほど艶やかで、彼は思わず目をそらした。
「お、俺……その……」
言葉に詰まった彼は、どうしても続けられなかった。
皆の歓声が響く中、梨央は背伸びをして、彼の唇にそっと口づけた。
夜空に花火が打ち上がり、彼の世界が一気に華やいだ。
耳の先まで真っ赤に染まり、冬の海風も、その鼓動を冷ますことはできなかった。
そして、結婚式の日。
少し大人びた一平も、その日はやはり緊張していた。
周囲には、十年以上想い続けた相手と結ばれたのに、今さら怖がってどうするんだと笑われた。
彼は震える手で服を脱ぎ、静かに彼女の上に身を重ねた。
頬を赤らめながら、「いいか?」と優しく尋ねる声には、あふれる愛がこもっていた。
彼女を抱いたその瞬間、彼女の首元に顔を埋め、声を震わせて泣いた。
「梨央……やっと、俺のものになったんだ……」
その想いは、確かに本物だった。
でも、今となっては――もう、愛していないのも事実だった。
梨央は、どうやって席に戻ったのか、自分もわからなかった。
映画が終わる頃、一平が戻ってきた。
表情はごく自然で、服に皺一つなかった。まるでずっと仕事していたように。
彼は梨央の肩に身を預け、甘えた声で言った。
「梨央、もう疲れたよ。仕事なんかやめて、ずっとお前のそばにいたい」
梨央の胸には、冷たい笑いが浮かんだ。
よくそんなことが言えるわね。さっきまであの女と抱き合っていたくせに。
襟元から覗く無数のキスマーク。強く香る香水の匂い。それらが、何度も何度も梨央の心を突き刺した。
一平。本当に、ご苦労さまだね。
隠し事が苦手なあなたが、ここまでして私にバレないようにしたなんて。
でも、もういいの。
あと少しよ。我慢すれば、もう隠す必要なんてなくなるから。
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