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歳々安らかに第2話

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ベッドの上にぽつんと座っている梨央の姿を見て、一平はまだ怒っているのだと思い、あわてて駆け寄った。

彼はしゅんとした顔で口を尖らせ、申し訳なさそうに謝った。

「俺が悪かったよ。叩いても怒鳴ってもいいから、無視だけはしないでくれよ……」

いつもなら、彼がこんなふうに情けない顔を見せるだけで、梨央の心はすぐに和らいだ。

だが、一平の度重なる嘘に、彼女の心はまた固く閉ざされていた。

梨央は彼を見つめながら、ふと若い頃のことを思い出した。

斎藤家では彼女を跡継ぎとして育てられたせいで、他の女の子のように思ったことを自由に口にすることができなかった。

怒っても、傷ついても、それを表に出せなかった。

けれど、一平だけは梨央の気持ちの変化をいつも一番に察してくれて、何度も根気よくなだめてくれた。

傲慢なはずの三条家の御曹司が、彼女の前では迷わず頭を下げるのだった。

梨央はつい、こんなことを口にしていた。

「もし……いつか私のことを愛さなくなったら……」

やはり、本音がひとこと、聞きたかった。

「そんなことないよ!」

彼女が言い終わる前に、一平が即座に遮って、真剣な顔つきで言った。

「俺の心には、梨央しかいない。ずっと梨央のことを愛して、なだめて、守っていくよ。

お前さえそばにいてくれれば、ほかには何もいらない」

梨央の心はすうっと冷え込んだ。

――私を愛してると言いながら、他の女のベッドを離れられないくせに。

彼女は一平を押しのけて言った。

「もういいよ。怒ってなんかないから」

梨央の表情がいつも通りに戻ったのを見て、一平は安心したように笑いながら、外から一枚の油絵を持ってきた。

「この絵をオークションで見て、絶対梨央が気に入ると思ったんだ!」

梨央はちらりと見ただけで、それがモネの初期の作品であり、かなりの価値があることに気づいた。

それでも、彼女は淡々と答えた。

「これは、モネが亡き妻と息子を思って描いたもの。最愛の人を失う直前の悲しみが滲んでるわ……」

話の途中で、一平が眉をひそめて遮った。

「なんか縁起悪いな、この絵。後で処分しよう。お前と離れたくなんかない」

彼は焦るように梨央の手を強く握った。

まるで、そうでもしないと彼女が消えてしまうように。

――縁起の悪いものは捨てるべきか。

確かにその通り。

梨央も、一平を捨てるつもりだった。

翌朝、まだ目が覚めていない梨央は、ふわりと漂ってくる料理の香りに気づいた。

三条家には多くの使用人がいるが、一平がいるときは、必ず自分で料理をする。

梨央が食事をして満足そうに笑う姿を想像するだけで、料理が楽しくなるのだと言っていた。

彼は梨央のためにすることに、決して他人の手を借りようとはしなかった。

「梨央、そろそろ起きて、朝ごはんだよ」

洗面道具も全て手の届く場所に置いてあり、歯ブラシには既に歯磨き粉がつけられていた。

一平は彼女の手を取り、少し嬉しそうに食卓へと連れて行くと、丁寧に箸を左手の側に置いた。

湯気の立つチキンスープ麺はとても美味しそうだったが、梨央にはまるで砂を噛むような味しかしなかった。

そのとき、楓がにこにこと映画のチケットを二枚差し出してきた。

「一平、もっと梨央と一緒にいてあげなさいな。せっかくの週末だし、映画でも見てリフレッシュしなさいよ」

梨央は断ろうとしたが、一平が即座に承諾し、得意げに服選びを始めた。

映画館に着くと、彼は何から何まで準備してくれていた。

チケットを見せたあと、通路には人が多くて少し混雑していた。

一平は梨央を庇うように抱き寄せ、つい声に出して言った。

「ここで講演会がある」

梨央が「どんな講演会?」と聞く前に、軽やかな声が響いた。

「社長!」

大江美奈子(おおえ みなこ)が目を輝かせて駆け寄ってきた。

まさに青春の真っ只中、明るくて無邪気な笑顔だった。

美奈子は今年入社したばかりの社員で、キャンパスリクルーティングで採用され、一平の秘書になった。

最初の頃は、一平は梨央にも彼女がどれだけドジで仕事ができないか文句を言っていた。

同僚たちにも最初は冷たくされていたが、そのうち不思議と何も言われなくなった。

たぶん、一平が彼女の後ろ盾になったからだろう。

梨央に対し、美奈子は「奥さん」とは呼ばず、「斎藤さん」とだけ呼びんだ。

それでも、梨央は特に気に留めなかった。

それから、美奈子は後ろにいる同級生たちを指さしながら、わざと大きな声で言った。

「社長が場所を提供してくださったおかげで、会場が確保できたんです。本当に助かりました!」

その場にいた人たちは一斉にざわつき出した。

「えっ、本当に三条社長が手配してくれの……!」

「やっぱり本当に三条家と繋がってたんだな……あの三条グループに入れるのも納得だよ」

「でもさ、奥さんが隣にいるってのに、まるで子犬みたいにまとわりついて……」

一平の顔が一瞬強張り、梨央の腰に回した手に力がこもった。

「場所を探してるのを見かねて手を出しただけだ。映画館はうちの持ち物だし、使わないままじゃ無駄になる」

彼は焦るように言い訳した。

美奈子は、一平が必死に梨央をなだめている姿を見て、ほんの一瞬、嫉妬の色を浮かべた。

「本当に助かりました。社長って、すごく人のことをよく見てくださるんですね」

その一言で、梨央の周囲の空気が一気に冷たくなった。

一平の顔には曖昧な笑みが浮かんでいたが、その目には梨央への優しさが滲んでいた。

「映画が始まるよ、梨央、行こう」

梨央はうなずいた。

こんな子供じみた手口に、心を乱されることはなかった。

席に着くと、一平は彼女の居心地を気にして、ブランケットをかけたり、ミルクティーを渡したりと、至れり尽くせりだった。

映画が始まった頃は、まだ腕を回して寄り添っていたが、途中から何度もスマホを取り出し始めた。

眉をひそめたり、ふと笑ったり。

時折、入力内容を梨央に見られないように、体をそっと横に傾けていた。

こんなにも見え透いた芝居をするなんて。

プライドの塊だった彼が、今はあの女のために隠しごとをしている。

しかし、スマホに一瞬映った、ピンクのリボンの写真で、彼の嘘が破れた。

面倒そうだった彼の表情が、だんだんと瞳を見開き、顔が赤らんできた。

そして、一平は慌ててスマホをしまい、梨央を見ながらぎこちなく笑った。

「梨央、ちょっと電話がかかってきた。すぐ戻るから」

梨央は黙ってうなずいた。

そして、彼が席を離れたあと、静かに立ち上がった。

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