朝夕、別れを語る第2話
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まもなくして、辰昭が外から慌ただしく帰宅した。
一日中何も口にしていなかったのか、梨花は立ち上がった拍子にふらつき、辰昭にしっかりと支えられた。
「今日も、ちゃんと食べてなかったの?」
辰昭の目には、深い心配の色が宿っていた。彼はそっと彼女を抱き上げた。
ふたりの距離が近づいた瞬間、ふわりと甘い果物の香りが鼻をかすめた。
梨花は香水を使わない。ならばこの香りの持ち主は、言うまでもなかった。
「何考えてるんだ、梨花ちゃん?」
辰昭は甘えるように彼女の頭を撫でた。
その時、梨花はふと、彼の手にうっすらとついた紅い唇の跡に気づいた。
結婚の翌日、辰昭はこっそりと腕に梨の花のタトゥーを入れていた。
「君を心臓とつながる血管の上に刻むことで、僕たちの心は通じ合うんだ」
彼はそう言っていた。
しかし今、そこには、彼女以外の女の痕跡があった。
胸がまた痛み出した。重く、鋭く、心臓を貫くような痛みだった。
「もしかして、空腹すぎて頭がぼーっとしてる?」
辰昭は面白そうに笑い、梨花の額にキスを落とした。
そして使用人に、温めていた料理を運ぶように指示を出した。
かつては毎日、辰昭自身が彼女のために料理を作っていた。
だがいつからか、仕事が忙しくなり、その役目は自然と使用人へと移っていった。
「僕も一緒に食べよう、食生活が乱れると胃を壊すからね」
そう言いながら、辰昭は梨花をそっとダイニングチェアに座らせ、食器を揃え、手を洗ってから魚の骨を丁寧に取り除いてくれた。
「……うん」
梨花は、胸の奥に広がる苦さを押し込めながら、彼がよそってくれた料理を小さく口に運んだ。
食べ始めて間もなく、辰昭の携帯が執拗に鳴り出した。
彼は発信者の名前を一瞥し、わずかに眉をひそめた。
梨花が気にしていないことを確認すると、手を拭き、立ち上がって別室へと向かって電話に出た。
戻ってきた彼の顔には、どこか落ち着かない影が走っていた。
「梨花、アトリエに急用ができた。行かなきゃ。今夜は待たなくていい、早めに休んで」
そう言って、辰昭は今日のオークションで手に入れた骨董品をテーブルに置き、「もっといいものを改めて買うから」とだけ言い残し、慌ただしく家を出ていった。
料理がすっかり冷えきる頃、梨花はようやく席を立ち、階上へ向かった。
ベッドに横たわると、ちょうど唯稚子のSNSの投稿が目に入った。
【ほんの微熱なのに、彼氏が看病したいって押しかけてきた。ごはんまで作ってくれたよ。彼の手作り料理、最高!】
添えられていたのは、エプロン姿で料理をする男性の手元の写真だった。
唯稚子は美術界である程度の知名度があり、十数万のフォロワーを抱えている。
この投稿が出るや否や、コメント欄は大きな騒ぎとなった。
【これって、唯稚子が前に言ってた、右手には億単位の保険がかけられている先輩でしょ?】
【こんな先輩、どこにいるの?私も欲しい!】
梨花はその手元の写真を見つめながら、かつて辰昭が自分に言ってくれた言葉を思い出した。
心臓が、巨大な拳にぎゅっと握り潰されるような痛みに襲われた。
【そんなのどうでもいいでしょ?うちの九条若様こそ、本物の愛妻家だぞ!】
誰かが今日のオークションの動画をアップすると、たちまちコメントの潮流は覆った。
【うわああ、これぞ真の愛のかたちだよな!?八十億円だぞ!?私なら、何百年も稼げないんだわ!】
【凄い!九条若様のラブラブぶりを知らない人がいるの?妻が事故で擦り傷ができた時、意識が戻った瞬間に最初に自分が見えるように、命がけで車を飛ばして駆けつけたって!】
【うちの九条若様、もう愛の神なんだよ!奥さんが贈った数珠、もう何年も経ったのに、今も肌身離さず持ってるよ!】
その動画の下では、唯稚子のファンたちは沈黙した。
辰昭の八十億と比べれば、ただの手料理では到底太刀打ちできなかった。
だが、突然……新規登録されたばかりのアカウントから、三枚の写真が投稿された。
一枚目は、アローラ島のワイナリーの名義変更の書類。
二枚目は、四十億円の価値を持つ海の心と呼ばれる宝石。
三枚目は、フェラーリのボンネットに腰掛け、鍵を手にした唯稚子の姿。
その投稿には、こう記されていた。
【他人が持ってるものは、うちの唯稚子にもあるんだ】
再びコメント欄は沸き上がり、【先輩すごすぎ!九条若様に負けてないね!】と称賛の声が続いた。
その時、梨花の携帯に、不明な差出人からのメッセージが届いた。
開いてみると、こう書かれていた。
【梨花さん、明日の夜は先輩が私のために開いてくれる打ち上げパーティーなの。絶対に来てね!】
音はなかったはずなのに、そこには明らかに唯稚子の得意げな声が滲んでいた。
メッセージの末尾には、レストランの住所が添えられていた。
東海通り1丁目7番42号、東洋亭。
そこは、梨花が辰昭と初めて食事をした場所だった。
そして彼が、「この店は君と僕だけの場所だ、他の人は入れない」と言ってくれた、特別な思い出の場所。
その文字を見つめるうちに、梨花の目にじわりと涙がにじんだ。
手を滑らせて、携帯が顔に落ちた。
鋭い痛みとともに、抑えきれなかった涙が、静かな闇に滲んでいった。
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