月明かりはあなたの瞳に沈んでいく第1話
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10年前、私は成瀬風馬を救うために失明した。
10年後、彼は愛人と私を同じ別荘に住まわせ、夜の前半は私を寝かしつけ、後半は愛人と密会していた。私の息子まで、こっそり彼女を「ママ」と呼んでいた。
彼らは知らない。私の目はもう見えていること、そして、ここから消えようと画策していることを。
* * *
「友里、交通事故を仕組んでくれない?死者は私でいい」
花岡凛音(はなおか りおん)は親友に電話をかけ、かすれた声でそう切り出した。
電話の向こうから、高橋友里(たかはし ゆり)の心配そうな声が聞こえた。「どうしたの?まさか風馬に何かされたの?」
凛音は顔を上げた。成瀬風馬(なるせ ふうま)の浮気を知ったあの瞬間、涙はもうすべて乾ききっていた。10年ぶりに感じる陽光を見つめながら、彼女は呟いた。「もう、ここから消えたいの。頼れるのは、あなただけなんだ」
友里は即答した。「半月後、うちの兄がちょうど隣町で契約の話があるの。そのとき、一緒に連れて行かせる」
「うん」
ちょうどそのとき、背後の寝室のドアが開いた。凛音は慌てて通話を切った。
背後から、広い腕が彼女を抱きしめてきた。
「ごめん、急に会社でトラブルがあって、次は必ず一緒に病院に行くから。
それより、今日の診断結果は?佐藤先生、なんて言ってた?」
風馬の言葉に、凛音の思考は朝の記憶へと引き戻される。
十年前、凛音は風馬を助けるために事故に遭い、その代償として視力を失った。
風馬は彼女の目を治すために、成瀬病院を立ち上げ、世界中の眼科専門医を高額で招き、数百億円もの資金を投じて視神経の再生治療に取り組んだ。
それから十年間、凛音は毎週欠かさず病院での治療を続けてきた。
521回、一度も奇跡は起こらなかった。
本当は、もう諦めたかった。けれど、風馬が何度も彼女の前で膝をつき、泣いて頼んだ。やがて、彼らには子供も生まれ、風馬の説得には子供のためにという理由が加わった。
「俺たちの子の顔、君もこの目で見たいって思わない?お願いだから」
彼女の息子も、毎年の誕生日に「ママの目が見えるように」と願ってくれた。
風馬への愛と、我が子の顔を一目見たいという執念それだけが、凛音を支えてきた。
でも、ようやく視力が戻ったその日、彼女は期待に胸を膨らませて風馬の会社を訪ねた。そこで目にしたのは、見知らぬ女をデスクに押し倒し、欲望にまみれて絡み合う風馬の姿だった。
男の荒い息遣いと女のあえぎ声が、冷たい氷水のように彼女の全身を打ち付けた。
これが、風馬がどうしても参加しなければならない緊急会議だったのか。
ドアのそばから机にかけて乱雑に散らばる衣類、床に落ちた書類、それらすべてが、ふたりがどれだけ我慢できなかったのかを物語っていた。
デスクで絡み合うふたりの姿は、凛音の目を鋭く刺した。いっそ、見えるようになんてならなければよかった。
心臓が潰れそうなほど痛み、息もままならなくなった。凛音はその場から逃げ出した。
まさか、その女を家まで連れてくるとは思わなかった。
しかも、家政婦たちは何事もなかったかのように仕事を続けていた。
つまり初めてじゃなかったのだ。
最も衝撃的だったのは、身ごもって産んだ息子が、その女にニコニコと手を振っていたこと。しかも、声を出さずに。
彼女の愛する息子が、あの女の存在を知っていたなんて。
みんな知っていた。彼女ひとりだけが、騙されていた。
今日だけで、どれだけの真実に気づいたのだろう。凛音は風馬の腕を忌々しげに振りほどいた。
振り返ると、風馬のシャツの襟元には無数のキスマークと引っ掻き傷が残っていた。
彼女の目が見えなかったあの年月、信じていた温もりも、頼っていた肩も全部が、汚れていた。
凛音はゆっくりと首を振った。「何も、変わってないわ」
もう決めたのだ。彼の前で目が見えることを明かすつもりはない。
このまま、彼と成瀬大地(なるせ だいち)の世界から消える。
親子そろって、いらない。
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