春とは、巡り逢えぬまま第3話
この話は約1892字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
璃宛は小さな声で言った。「寒夜、これはちょっとまずいんじゃないかな……菫さんはあなたの彼女だし、私は……」
「うるさいな。俺はまだお前を完全に許したわけじゃない」
寒夜は、彼女に対してわざと冷たく装っている。でも、菫があの絵を壁から外すのを見て、玄関のスリッパを履いて外に出ようとするのを見ると、思わず呼び止めた。「待て、客室を片付けて、そこに泊まれ」
菫は淡々と、「分かりました」と応えた。
璃宛は一瞬きょとんとした。目の奥がかすかに揺れる。
寒夜は、すぐに璃宛を許すつもりはなさそうで、数日間はほとんど彼女を無視していた。その代わり、菫とは平気で笑い合い、キスまでしてみせる。
彼は、そんな姿をわざと璃宛に見せつけて、嫉妬させ、後悔させ、自分を追いかけさせようとしていたのだ。
菫は思い出す。昔の彼は絶対にキスなんてしなかった。たとえベッドの上でどれだけ激しかろうと、その余裕すら見せなかった。彼女が無意識に自分から求めても、すぐに冷たい声でこう言い放った。
「自分の立場をわきまえろ。意味のないことはするな」
けれど今、璃宛を刺激するためなら、どこにでも菫を連れて行く。発表会、オークション、チャリティーパーティー……どこに行っても、始終彼女を気遣ってみせる。
璃宛がまた目を赤くして走り去るのを見た時、菫は寒夜を突き放した。
「段野社長、この数日、草薙さんは何度もあなたに歩み寄ろうとしていましたよ。こんなことをして、本当に彼女の心が完全に冷めてしまってもいいんですか?彼女、何か事情があるみたいですし、一度話を聞いてあげたら?このままだと、きっと……」
菫の助言を聞きながら、寒夜の顔色はどんどん暗くなっていった。目の奥には恐ろしいほどの怒りが渦巻いている。
「お前は何様だ。俺のことに口出す資格があると思ってるのか?
もう一度言う。自分の立場を忘れるな。お前のすべきことだけやって、余計なことは一切口にするな」
菫の顔はうっすらと青ざめていった。
今まで、彼のことに意見したことがなかったわけじゃない。でも、完全に物として扱われたのは、これが初めてだった。
しばらく沈黙した後、菫は静かに言った。
「承知しました、段野社長」
寒夜は璃宛が遠ざかるのを見届けると、少し後ろへ下がり、ネクタイを整えた。「璃宛は戻ってきた。でもお前にもまだ利用価値がある。これから一ヶ月、きちんと協力すれば、お前の今後の人生、何不自由なく暮らせるだけの補償をしてやる」
「段野社長、忘れましたか?お母様から、もうすでに支払ってくださったことを」
再び顔を上げたとき、菫の前には、もう二度と手の届かない彼の背中だけが残されていた。
菫はうっすらと笑った。
まあいい。契約が切れるまでの辛抱だ。いずれ煩わしい思いをしなくて済む。
洗面所から出てきた時、菫は璃宛と鉢合わせた。彼女はわざと待っていたかのように、明るい笑顔を浮かべている。「あなたも分かってるはずよね?寒夜がなぜあなたと一緒にいるのか」
菫は表情を変えずに答えた。「分かってる。私はあなたの身代わりだから」
「それなら、私が戻ってきたんだから、なぜ彼と別れないの?あんた、身代わりのくせに人の恋愛に割り込んで、恥ずかしくないの?」
菫はこれ以上絡まれるのが嫌で背を向けたが、腕を掴まれてしまう。
その顔も、さすがに冷たくなった。
「草薙さん、私の決断にあなたは関係ない」
璃宛は、菫が怒ったのを見て、逆に楽しそうに微笑んだ。「あなたのこと、調べさせてもらったわ。昔は女優で、その後いろんな男と噂になって、監督に囲われて……私生活も滅茶苦茶。身代わりは結局、身代わりでしかない。人前に出す価値もない女よ!まあ、私が本物ってものを見せてあげるわ」
そして、璃宛の帰国祝いのパーティーが開かれた。普段はバラバラな寒夜の兄弟分たちも、今日はみんな集結していた。
レーサーの江坂鳴門(えざかなると)が不敵な笑みを浮かべて、グラスを掲げ、璃宛と乾杯した。「璃宛、明日のレースまでキャンセルしてきたんだぜ。今日はとことん飲むぞ!」
医者の近松立樹(ちかまつたつき)も眼鏡を押し上げて、にっこり笑った。「僕も手術を全部昨日まとめて終わらせてきた。璃宛のために集まったんだよ。この数年、璃宛が寒夜のそばにいないと、空気がずっと重苦しかった」
誰かがため息をついた。「本当にな。でもお前が生きててよかったよ。もし死んでたら、俺たち一生……」
みんなが璃宛の周りに集まり、昔話やら面白いエピソードで盛り上がっていた。その輪に、菫が入る余地はまるでなかった。
誰も気づかなかった。隅っこで、菫だけが、静かに彼らを見つめていたことに。
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