文音は、もう涼風を待たない第3話
この話は約2097字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
刑務所の前の騒ぎは、すぐに警備員たちの注意を引いた。
警備員が駆けつけたとき、中年の女性はまさに硫酸を振りかけようとしていた。文音はとっさに腕を差し出し、それを防いだ。
「ジュッ」という音とともに、血と肉が焼ける匂いが立ちのぼり、瞬く間に骨が露わになるほどの深い傷ができた。
文音は痛みに顔を歪めながらも、責任を追及しようとする警備員を手で制した。
「三年前、確かに私にも非があった。だから、彼らを責めないでください。
でも……もう一度だけ、私にチャンスをください。
必ずあなたの娘さんの潔白を証明してみせます」
その言葉が終わると同時に、騒がしかった群衆はしんと静まり返った。
人々は自然と道を空けた。
文音は負傷した腕を引きずるようにしながらも、背筋をすっと伸ばし、一歩一歩、家の方へと歩み始めた。
ドアを開けた瞬間、目に飛び込んできたのは……
涼生が時奈の足元に跪き、両手で彼女の足を丁寧に支えながら、薬を塗っている姿だった。
その手つきはまるで壊れ物を扱うように優しかった。
それでも時奈は目を潤ませ、甘えるように囁いた。
「涼生……痛いの……」
たった一言で、涼生はすぐに態度を変え、傷口にそっと息を吹きかけながら低く囁いた。
「大丈夫、怖くないよ。もっと優しくするから」
だがその傷は、ほんのかすり傷に過ぎなかった。
一方で、文音の腕は血と肉がぐちゃぐちゃにただれ、指先にかけて乾く間もなく血が滲んでいた。
冷たい風が吹き抜け、まるで刃物のように傷口を撫でている。
その鋭い痛みは腕を通り、胸の奥まで突き抜け、心臓が痺れるようだった。
文音は無表情のまま足を引きずって近づき、涼生の手から無言で薬を奪い取った。
涼生が振り返り、文音の凄惨な姿に思わず息を呑んだ。
顔色は青ざめ、目には動揺と戸惑いが浮かんでいた。
「どうしたんだ?記者が数人いたくらいだろ?お前は百戦錬磨の弁護士じゃないか。どうしてこんなにボロボロなんだ?」
文音はその言葉に、思わず笑ってしまった。
「つまり、私が傷つくことになるって、最初からわかってたのね?今さらそんなこと言って、何の意味があるの?」
涼生は言葉に詰まり、眉間に怒気を浮かべた。
「……何だよ。たかがこんなことで、うまく解決できないのか?
もういい。誰か呼んで手当てさせる」
時奈が立ち上がり、心配そうに、どこか哀れむような口調で優しく言った。
「文音、私が手伝ってあげる」
「どいて」文音の声は冷たく、きっぱりと彼女を拒絶した。
だが時奈はちょうど消毒用のアルコールを持っていて、避けきれずにそのまま文音の傷口に触れてしまった。
激痛が走り、文音は思わず息が詰まり、反射的に時奈を突き飛ばした。
時奈は体勢を崩し、頭をテーブルの角にぶつけてしまい、すぐに血が滴り落ちた。
彼女は目の奥に一瞬浮かんだ憎悪を必死に隠しながら、血を押さえてかすかに笑った。
「文音……痛くさせちゃったのね?全部私が悪いの。怒らないで……お願い」
涼生の瞳が震え、唇をきつく結び、思わず時奈を抱きしめようとした。
しかし……文音の冷たく、嘲るような視線とぶつかったその瞬間、彼はその手を止めた。
「文音、お前は姉をいじめることしかできないのか?
文句があるなら、俺に言えよ」
文音はその言葉に顔を上げ、涼生をじっと見つめた。瞳には怒りが宿り、みるみる赤く染まっていった。
時奈はよろめきながら立ち上がり、涼生の前で小さくすすり泣いた。
「涼生、そんなに怒らないで……文音は三年も刑務所にいたんだもの。少しくらい恨みを持ってても、仕方ないよ。だって……」
言葉を切って、挑発するように文音を一瞥してから続けた。
「だって三年前の裁判、彼女は負けて、勝ったのは私だったんだもの。
彼女が私を恨むのも無理ないけど……でも、私の依頼人は無実だった。妹だからって、不正を見逃すわけにはいかなかったの」
文音は思わず涼生を見た。
だが彼の視線は、最初から最後まで時奈に注がれたままだった。
「いいんだよ、君は間違ってない。俺は『正義』しか信じない。
真実を歪め、法の正義を踏みにじる者は、裁かれても当然だ」
そう言って、意味ありげに文音の方へ視線を向けた。
文音は呆れ果てて言葉も出なかった。
そんな正義ヅラを平気でできるなんて……拍手でもしてやりたいくらいだ。
婚約者に冤罪を着せておいて、聖人ぶるなんて、厚顔無恥にも甚だしい!
「『正義』?涼生、三年じゃ足りないってこと?
真実を一番知ってるのは、他でもないあんたでしょ!」
その言葉が終わらぬうちに、携帯の着信音が響いた。
涼生の携帯だった。
相手は怒りを抑えきれない声の隆道だった。
「電話を文音に代われ!」
文音は釈放されたばかりで、まだ携帯すら持っていなかった。
電話を受け取ると、隆道の声は明らかに苛立っていた。
「聞いたぞ。時奈が迎えに行ったのに、お前は冷たくあしらったそうじゃないか?
どうせあと十三日でお前は行くんだ。くだらない我を張らずに、おとなしくしてろ。嫁資の準備はちゃんとしてやる」
文音は何も答えなかった。胃がぎゅるぎゅると音を立て、吐き気を催した。
そのとき、涼生が驚いたような声で口を開いた。
「行く?文音、どこに行くつもりだ?」
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