文音は、もう涼風を待たない第1話
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「考え直した。もし私をここから出してくれるなら、西園寺家との政略結婚……引き受ける」
月島文音(つきしま あやね)は面会室のガラス越しに端座し、蒼白な唇をきつく結んでいた。
文音の父親・月島隆道(つきしま あやみち)は勢いよく立ち上がった。グレーのオーダースーツは体にぴったり合っていたが、その動きの激しさに、小さな裂け目が入ってしまった。
喜びを押し殺すように、無理に心配そうな表情を作った。
「文音……本当にそれでいいのか?お前を助け出すのは簡単なことじゃない。父さんだって三年も手を尽くしたが、何の成果もなかった……
でも、お前が嫁ぐ覚悟を決めたのなら、安心しなさい。全財産を投げ打ってでも、半月以内に必ず救い出す!ウェディングドレスはどんなデザインがいい?すぐに準備する!」
「そんなことはどうでもいい」
文音は唇を皮肉に歪めた。
「でもね、西園寺家が求めてるのは『月島家の嫡長女』との縁組でしょ?だったら、私の身分、変える必要があるんじゃない?」
隆道の表情が一気に冷えた。
「お前は二十年も時奈を『姉さん』と呼んできたんだぞ。今さら変えられるものか」
「でも私が母に生まれたとき、あの子はまだ生まれてもいなかったわ」
彼女は冷笑を浮かべた。「あの子は愛人の娘でしょ?どこが『お姉さん』なの?」
隆道は無言で文音を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たかった。
「その条件は認められない。別のにしろ」
「じゃあ、二千億の持参金」彼女は淡々と口を開いた。「それと……どうせ替え玉婚をするなら、とことんやりましょ。冷泉には、月島時奈(つきしま ときな)を嫁がせて」
* * *
「考え直した。もし私をここから出してくれるなら、西園寺家との政略結婚……引き受ける」
月島文音(つきしま あやね)は面会室のガラス越しに端座し、蒼白な唇をきつく結んでいた。
文音の父親・月島隆道(つきしま あやみち)は勢いよく立ち上がった。グレーのオーダースーツは体にぴったり合っていたが、その動きの激しさに、小さな裂け目が入ってしまった。
喜びを押し殺すように、無理に心配そうな表情を作った。
「文音……本当にそれでいいのか?お前を助け出すのは簡単なことじゃない。父さんだって三年も手を尽くしたが、何の成果もなかった……
でも、お前が嫁ぐ覚悟を決めたのなら、安心しなさい。全財産を投げ打ってでも、半月以内に必ず救い出す!ウェディングドレスはどんなデザインがいい?すぐに準備する!」
「そんなことはどうでもいい」
文音は唇を皮肉に歪めた。
「でもね、西園寺家が求めてるのは『月島家の嫡長女』との縁組でしょ?だったら、私の身分、変える必要があるんじゃない?」
隆道の表情が一気に冷えた。
「お前は二十年も時奈を『姉さん』と呼んできたんだぞ。今さら変えられるものか」
「でも私が母に生まれたとき、あの子はまだ生まれてもいなかったわ」
彼女は冷笑を浮かべた。「あの子は愛人の娘でしょ?どこが『お姉さん』なの?」
隆道は無言で文音を見つめた。その眼差しは、氷のように冷たかった。
「その条件は認められない。別のにしろ」
「じゃあ、二千億の持参金」彼女は淡々と口を開いた。「それと……どうせ替え玉婚をするなら、とことんやりましょ。冷泉には、月島時奈(つきしま ときな)を嫁がせて」
隆道は目を見開いた。目の前の娘が、まるで見知らぬ他人のように感じられた。
文音は昔から時奈とそりが合わず、冷泉涼生(れいぜい りょうい)のことは骨の髄まで愛していたはずなのに。まさか、こんなことを言い出すなんて……
隆道の目が細まり、すでに腹を決めていた。
西園寺家のあの男は、極めて残酷な人間だった。
この三年で、九人の女性が彼のもとで虐げられ、命を落とした。
「……わかった。約束しよう」短い沈黙の後、隆道は奥歯を噛みしめ、うなずいた。本当の愛娘に苦しんでほしくはなかった。
その言葉を聞いた文音は、ふっと笑った。
目には涙がにじみ、胸の奥には痛みと苦しみがじわじわと広がっていた。
どうしても、あの夜の記憶が頭から離れない。
涼生と過ごした最後の夜。
その日、彼はいつにも増して激しかった。
痛みで文音の体は裂けるかと思うほどだった。
けれど彼の瞳には、優しさなど一片もなかった。ただ血走った目で、欲望をぶつけていただけ。
終わりが近づいたその時……
彼は突然動きを止め、体を引いた。「疲れた」とだけ呟いて。
そしてあの夜の前に、二人が交わった時も、同じ理由で最後までやり遂げらなかった。
「結婚前に妊娠させたくないから」と。
だがあの夜、深夜になって彼女は妙な音に目を覚ました。
浴室から、水音と共に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
時奈の声……
合成なのか、本物なのかはわからない。だが確かに、あの甘い声でこう呼びかけていた。
「涼生、涼生……」
それに応えるように、涼生の苦しげな吐息が洩れた。
息を荒らげ、抑えた呻きが聞こえた。
「時奈……俺は、お前のものだ……」
頭に冷水をかけられたように。文音の体は震えた。
何が起きたのか理解する間もなく、翌日……裁判が始まった。
強姦事件の原告側の最大の証拠、依頼人のプライベート動画がネットに流出した。
文音の依頼人は『売春婦』と断じられ、世間から激しい非難を浴びた。
裁判は敗訴。原告側の弁護士である文音も、収監された。
その一方で、被告側の弁護士・時奈は、一気に名声を高めた。
もう疑う余地はなかった。
彼女のパソコンのパスワードを知っているのはただ一人……涼生。
……
隆道と会った一週間後。
涼生が迎えに来た。文音は釈放された。
彼は背が高く、冷たい表情をしていた。
その口から出たのは、たった一言。
「行こう。時奈がずっと待ってる。
雨が降ってるから、彼女が風邪を引いたら困るんだな」
大門の前、マイバッハの傍らにいる時奈が笑顔で近づいてきた。手には豆腐の皿を持っていた。
「文音、これは『白いお豆腐』。これからは潔白な人生を歩めるように、という意味を込めて」
けれど、その皿が文音の手に渡る前に……
時奈の手から、皿が滑り落ちた。
皿は地面で粉々に砕け、白い豆腐は泥にまみれた。
まるで文音の未来が、もう清らかさを取り戻せないことを暗示しているかのように。
時奈はぱちぱちと無垢な瞳を瞬かせ、潤んだ目で言った。
「ごめんなさい……わざとじゃないの。文音、怒ってないよね?」
文音は何も言わず、ただ涼生に目を向けた。眉をわずかに上げて、こう言った。
「ねえ、あなたが決めて。私、怒ってもいいかしら?」
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