戻れぬ二人、江海の涯に第2話
この話は約2388字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
基之が任務を終えて戻ってきた日、部隊はミシュラン三ツ星のレストランを予約し、盛大な打ち上げ会を行う予定だ。
家族同伴が条件なので、基之は珍しく夏見にメッセージを送った。
【今夜八時に打ち上げ会を開く。支度しておけ。迎えに行く】
画面を見た夏見は、いつものように【分かった】とだけ返した。
基之はいつもそうだ。冷たい口調で一方的に予定を告げるだけで、彼女の都合を一度も聞いたことがない。
きっと彼の中では、夏見に対して「自分以外に大事な用事はない」と思っているのだろう。
夜、基之の車が時間ぴったりに夏見の家の前で停まった。
車に乗り込んだ夏見は、助手席にすでに誰かが座っていることに気づいた。
――静菜。
その瞬間、ドアを閉める手が一瞬止まった。
基之は昔から、誰かが助手席に座るのを嫌っていた。
「視界が遮られる」と言われて、夏見でさえ一度も座らせてもらえなかった席。
それなのに、今そこにいるのは別の女性。
呆然とする夏見を現実に引き戻したのは、静菜の穏やかな声。
「初めまして。横島静菜なの。
もし間違ってなければ――あなたは基之のいとこだよね?」
……いとこ?一瞬、夏見は息を呑んだ。基之は普段から、自分のことをそう紹介しているのだろうか。
胸の奥に苦みがじわりと広がる。けれど、夏見は無理に笑みを浮かべた。
「ええ、いとこです」
静菜はにこやかに頷き、スマホを取り出して夏見に差し出した。
「せっかくだし、ライン交換しよう?」
そして、半分冗談めかして笑いながら言った。
「この人ね、基地ではいつも私をいじめるのよ。
次やったら、あなたに告げ口するから――そのときは味方になって、彼を止めてね」
もしこの言葉を夏見が言ったなら、基之はきっと笑いもせずに、「子どもみたいだ」「君は昔から変わらないな」と軽く流しただろう。
だが今、彼は違った。静菜の方を見つめ、目尻をやわらかく下げ、声も優しくなった。
「はいはい、分かったよ。君の言う通り」
……
車内は二人の笑い声で満ちている。二人だけに分かる冗談や、基地での出来事。
夏見は後部座席に座り、一言も口を挟まず、ただ静かに目を閉じて居心地の悪さを誤魔化している。
けれど、耳に入ってくる基之の柔らかな声――自分には一度も向けられたことのないその声色に、堪えきれず瞳が熱くなった。
ようやくレストランに着いたとき、静菜が突然足をくじいた。
「大丈夫?」と基之が即座に駆け寄り、揺るぎない口調で言った。「おぶってやる」。
「平気。自分で歩けるから」赤くなった顔で首を横に振る静菜に、彼は眉をひそめ、強気な口調で言った。
「無理するな」
そう言うや否や、ためらうことなく彼女の腰に腕を回し、抱き上げた。
そして静菜を抱えたまま、夏見に言い放った。「かばん、持って」
呼ばれた夏見は、指先がぎゅっと掌に食い込み、黙って静菜のかばんを掴んだ。
心の中で波打つ感情を必死に押し殺しながら、二人の後を追った。
個室に入ると、すぐに周囲の視線が二人に集中した。
ざわめきの中、誰かが茶化すように声を上げた。
「おやおや、近石さん、横島先生を抱っこして登場とは!そんなに見せつけなくてもいいでしょ!」
「いやぁ、これは完全にイチャイチャでしょ?こっちは独身だ!」
「俺、前から思ってたんだよ。近石さんが横島先生を見る目、普通じゃねぇって!ほら見ろ、やっぱりな!」
騒ぎの後で、ようやく誰かが夏見の存在に気づいた。
「え?そっちは……?」
基之が彼女を友人に紹介することはほとんどなかった。この場で顔見知りなのは、誠ただ一人だけだ。
誠が何か言おうとしたその瞬間――静菜は椅子を引き、夏見に「座って」と目で合図した。そして微笑みながら口を開いた。
「紹介するね。基之のいとこ、堀友夏見さん。
みんな、あんまり怖がらせないでね。こう見えて、すごくおとなしい子だから」
彼女の柔らかな言葉に、場がどっと笑いに包まれた。
「おっと、横島先生、もう義姉さんモードに入ってるか!まだ付き合ってもないのに!」
夏見の顔から血の気が引き、恐る恐る基之の反応をうかがった。
だが彼は怒るどころか、ただ苦笑を浮かべただけ。
そのまま静菜のカップにお茶を入れ、まるで何事もなかったかのように箸を差し出した。
彼と違って、静菜は頬を赤らめながら言った。「もう、やめてよ。せっかくの美味しい料理が冷めちゃうじゃない」
食事の間、誰かが静菜に酒を勧めるたびに、基之はすかさず手を伸ばし、彼女の代わりに杯を空けた。
そんな彼の様子を見つめるうちに、周囲の人々も次第に真剣な表情へと変わっていった。
「なあ、基之さん。俺、見てて思うんだ。あんたら、どう見ても両想いじゃねぇか」
「両想いなら、なぜ付き合わないんだ?」
誰からともなく同調の声が広がっていった。「そうそう、こんなにも好きなのに、ツンデレで何も言わないなんて」
「この前、近石さんが銃弾を受けたとき、横島先生は手術室で泣きながら弾を抜いてたんだぞ。それなのに、近石さんには言うなって口止めしてたんだ」
「そういえば、横島先生、前に『朝の食事が毎日机に置いてあるけど、誰が用意してるのか』って言ってたでしょ?あれは近石さんなんだよ。横島先生が低血糖だと知ってて、毎回『ちゃんと食べさせとけ』って俺たちに言うんだ」
言葉が一つ増えるたびに、夏見の顔色はますます青ざめていった。椅子に座った体は硬直し、まるで心臓を直接殴られているかのような感覚。
そうか、彼らの世界では、自分の知らない時間が流れているのだ。
彼女は家で祈りながら、「早く勲章を取って、結婚の約束を果たして欲しい」と願うことしかできなかった。
この恋は果てしない待ちであり、最初から結末などなかった。
自分の深い愛情は、最初から一人芝居に過ぎなかったのだ。
場が再び盛り上がったとき、ようやく誠が口を開いた。
「おい、もうやめろよ。お前ら、知らないのか?基之にはもう婚約者がいるんだ」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)