慰謝料が十億?私は一万円しか貰ってないけど第3話
この話は約2745字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
5歳の奈々美は、ひどく痩せ細っていた。腕の太さは、大人の手首ほどしかない。それでも、私を守ろうと必死になっていた。
裕翔がしゃがみ込み、奈々美に近づこうとする。
「奈々美、俺はパパだ。悪い人じゃない」
「奈々美にパパなんかいない!」奈々美は顔を真っ赤にして叫んだ。
裕翔が一瞬、言葉を失う。その隙に、由梨が慌てて近づいてきた。
「あずささん……お金のことを理由に、娘さんに実の父親を知らせないなんて、さすがにひどすぎますよ」
裕翔はゆっくり立ち上がった。その視線は再び冷えていく。
「……あずさ。こんなやり方で俺から金を引き出せると思ったなら、当てが外れたな」
私はもう、彼らと話す気になれなかった。奈々美の手を引き、痛みを我慢しながら医師を探した。
掌の傷は、7針も縫うことになった。
医師は傷口を縫い終えると、麻酔がまだ切れていないうちに私を廊下へ呼び出した。
「お子さんの今後の検査についてですが、骨髄穿刺や遺伝子検査が必要になりそうです。入院費や薬代もあるので、この間お伝えした400万は、なるべく早く用意しておいてください」
――400万。
今、口座に残っているお金は、2万にも満たなかった。
病室の前では、裕翔が待っていた。手には、先ほどの書類を持っている。
「費用は俺が直接、病院に払う。お前が心配しなくていい」そう言ってから、裕翔は一拍置いた。「ただし、支出は全部由梨に確認させる」
「……あの人に、娘の生死を委ねるっていうの?」
「由梨は俺の代わりに金の流れを確認するだけだ。治療を口実に、お前が必要以上の金を請求しないようにな」
私は書類に記された由梨の名前を見つめた。ふと、笑いが込み上げてくる。
5年前、由梨は私に何も知らせずに、10億円を横取りした。
そして5年後、今度は、娘の命をつなぐためのお金まで、由梨が管理するという。
「……サインしない」
裕翔は何の感情も見せず、書類をカバンにしまった。
まるで、大したことのない取引を打ち切るような、淡々とした口調だった。
「なら、自分でなんとかしろ」
それだけ言い残し、裕翔は立ち去った。
その後、私は持ち物を一つずつ確かめた。今の私が持っているもので、一番価値があるのは――1つの指輪だけだった。
指輪はひどく古びていた。ダイヤモンドだって、米粒ほどの大きさしかない。
裕翔がまだ起業したばかりで、何もかもが苦しかった頃、3ヶ月分の生活費をはたいて買ってくれたものだった。
あのとき裕翔は、私の指に指輪をはめながら、目を赤くして言った。
「いつか、あずさに何不自由ない暮らしをさせるから」
その後、裕翔は事業を軌道に乗せ、何度か新しい指輪に替えようとしてくれた。けれど、私は一度も首を縦に振らなかった。
指輪そのものに価値があったからじゃない。あの頃の裕翔は、本当に私を愛してくれていた。だから、手放せなかった。
――でも、今は違う。
思い出だけでは、奈々美を救えない。
私は奈々美が眠っている隙に、病院の近くにある買取専門店へ向かった。
店主は指輪を念入りに調べると、査定額を告げた。
「4万円ですね」
私は迷わなかった。必要な書類に記入を済ませ、受け取った金を財布に入れ、病院へ戻った。
病院の入口まで来たところで、1台の黒い車が目の前を塞いだ。
ドアが開き、裕翔が降りてくる。その手には、さっき売ったはずの指輪が握られていた。
「あずさ、俺がプレゼントした指輪を売ったのは、俺に『これだけ愛されていた』って思い出させるためか?金を使い果たしたら、今度は情に訴えて、また俺から大金を引き出そうとしてるんだろ?」
私は、裕翔の顔をじっと見つめた。そして、ようやく分かった。
――裕翔にとって、私の行動は何もかもが計算なのだ。
指輪を売ったのも、生活に困って仕方なく手放したからではない。裕翔の同情を引いて、もう一度お金を出させようとしている――彼には、そう見えているのだ。
「……それ、持って帰って」私は裕翔を見上げ、静かに告げた。「私は、あなたの同情なんていらないから」
私は指輪を売ったお金を手に、まず必要だった検査と薬の費用を支払った。
昼頃。
医療費の支援を申請していた窓口から、審査結果が届いた。
――申請は却下された。
理由はこうだった。
私は5年前に10億円の資産を保有していたものの、海外不動産や高級車、ブランド品などの購入によって資産を使い果たした。よって、支援の対象には該当しない。
私は、その数行をじっと見つめた。胸の奥が押しつぶされそうになる。
一度も私の手に渡っていないお金が、5年前には私の命を奪いかけた。そして5年後には、奈々美の生きる道まで塞ごうとしている。
私はすぐに資産状況の再調査を申請した。10億円が入っていたとされる口座について、開設時の資料、ログイン履歴、登録電話番号、そして資金の流れをすべて開示するよう求めた。
それから、隣の県にある公立の医療機関へ電話をかけた。奈々美の診療記録を確認した担当者は、ほどなくして返事をくれた。
「お子さんの治療費は、こちらで大部分を免除できます。3日後に、そちらの地域へ向かう搬送車があります。お子さんの状態が安定していれば、こちらで受け入れます」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていたものがようやくほどけた。
「……ありがとうございます。お待ちしています」
……
その日の夜、由梨は裕翔の執務室をノックした。
「医療費の支援申請、却下されました。あずささんの口座残高は、もう4千円もありません」
裕翔は椅子の背にもたれたまま、何も言わなかった。
由梨はタブレットを操作し、画面を裕翔に見せる。
「400万なんて、彼女には到底用意できません。3日もあれば、必ず書類にサインするはずです」
裕翔の脳裏に、昼間、買取専門店の前で見たあずさの姿が浮かんだ。眉が、ほんのわずかに動く。
「彼女……結婚指輪まで売った」
「社長が気にかけてくれると分かっているから、わざと売ったんですよ」由梨は確信めいた口調で言った。「あの人があなたを動かす方法なんて、昔から変わってません。自分を追い詰めて、かわいそうな姿を見せつけたら、あなたが折れるのを待つんです」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「あなたが情をかければかけるほど、あの人の欲望が膨らむ。そういう人ですよ」
裕翔はしばらく黙っていた。やがて、由梨の言葉を受け入れるように、小さく頷く。
「……あいつは、そう長く持たない。すぐ俺に頭を下げるだろうな」
その頃、病室では。
転院の手続きを済ませた私は、荷物をまとめて、ベッドの下に隠した。
奈々美が目をこすりながら、眠そうに身体を起こした。
「ママ……どこに行くの?」
私は身を屈め、奈々美の額にそっと口づける。
「ここよりずっといい場所に行くの。奈々美はいい子だから、あと3日だけ我慢してね」
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)
第4話は公式アプリで
当サイトでの試し読みはここまでです。アプリをインストールし、下のアプリ用コードを入力すると、この作品の第4話からそのまま読み進められます。
U94323- 下のボタンから公式アプリをインストールします(無料)。
- アプリを開き、「コードを入力」にこのコードを入れると、この作品が本棚に入ります。
作品ページへ戻る 当サイトに掲載しているのは試し読みの章だけです。