慰謝料が十億?私は一万円しか貰ってないけど第1話
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私の名前は森下あずさ(もりした あずさ)。
妊娠3ヶ月の頃、夫の藤田裕翔(ふじた ゆうと)は「妊娠すると夫婦生活に影響が出るから」と言い、幼なじみでもある秘書・遠藤由梨(えんどう ゆり)を通して、私に1万円を渡し、中絶するよう迫った。
私は中絶を拒み、署名済みの離婚届を残し、裕翔の前から姿を消した。
それから5年。
裕翔と再会したのは、市立こども病院だった。
彼はその日、病院に60億円もの寄付をしたらしい。
一方私は、娘・奈々美(ななみ)の面倒を見ながら、病院の食堂で働いていた。
* * *
昼休み。
お腹を空かせた奈々美は、食べ残された唐揚げを見つけると、小さな手を伸ばした。
「奈々美!」
私は慌てて、その手を引き戻す。
「前も言ったでしょう。人が残したものは食べちゃだめだって」
奈々美はしょんぼりしながらも、目だけは唐揚げから離れない。
「でも、お皿に残ってるだけだよ。まだゴミ箱には入ってないもん。奈々美、食べられるよ」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
私は慌てて、朝残しておいた半分のパンを出し、奈々美に渡した。
その時、背後から聞き覚えのある声が落ちてきた。
「……あずさ?」
全身が強張った。
ゆっくり振り返ると、食堂の入口には、院長や記者たちに囲まれた裕翔が立っていた。
5年ぶりに見るその姿は、昔と何も変わっていない。仕立てのいいスーツに、隙のない身なり。袖口で光るカフスボタンひとつでさえ、奈々美に唐揚げを10年食べさせられそうなほど高価に見えた。
そんな裕翔の視線が、私の制服へと落ちる。
何度も洗濯を繰り返して、すっかり色褪せた服。そして、その隣にいる奈々美の手元へ。
半分のパンを握りしめた、小さな手。
裕翔の顔から、少しずつ表情が消えていった。
「……どうしてここに?」
私は表情を変えないまま、パンを奈々美の手から受け取り、バッグへ戻した。
「病院は人手が足りないから。私は、お金が必要だったから」
淡々と答えると、裕翔が眉を寄せる。「離婚の時、俺が振り込んだ10億は?」
「……10億?」
思わず聞き返した。
その瞬間、裕翔の後ろにいた由梨の顔が、さっと青ざめた。
裕翔は私を見据えたまま、低い声で続ける。
「お前は金を受け取って、中絶同意書にもサインした。なのに、由梨から聞いた話では――『10億じゃ足りない。海外へ行って、別の男と結婚する』と言っていたそうだな」
私は堪えきれずに笑いが漏れる。
「藤田社長、あなたの秘書が私に渡したのは、1万円だけだったよ。中絶がうまくいかなくて、運が悪かったら、私も奈々美も死んでいたんだよ」
裕翔の視線が、私から奈々美へ移る。
奈々美は、突然向けられた鋭い視線に怯えたように、私の脚をぎゅっと抱きついた。そして、私の後ろに隠れながら、そっと顔を出す。
「ママ……この人が、ママが死んだって言ってた、ケチなパパなの?」
その場に、しんと静寂が落ちた。
裕翔は、数秒ほど呆気に取られていたが、由梨に確認するのではなく、値踏みするような目で私の頭から足元までをゆっくり眺める。
「……そうか、金に困ってるから、ここに現れたんだな?」
「……何のこと?」
意味が分からず、聞き返す。
「俺が病院に来ると知って、子どもまで連れてきて、お金をせびるつもりだったんだろう。あずさ、5年経っても、お前は何ひとつ変わってないな」
色褪せた私の制服に目を落とし、それから奈々美へ視線を移す。その目に浮かんでいるのは心配でも同情でもなく、露骨な嫌悪だけだった。
「10億を持って海外へ行ったのに、5年で使い果たした。今じゃ、子どもにまともな食事も与えられない。お前、それでも母親か?」
あまりの言い草に、私は思わず笑ってしまった。
「さっきも言ったけど、私は1万円しか受け取ってないよ」
裕翔が眉間に深い皺を刻み、何か言い返そうとした。その前に、人垣の後ろから由梨が歩み出てくる。
「あずささん、今の生活が苦しいことは分かっています。だからといって、5年前お金を受け取ったことまでなかったことにするのは、どうかと思います」
由梨はタブレットを操作し、数枚の書類を裕翔に見せた。
10億円の振込記録、中絶慰謝料の示談書、海外の不動産を購入した記録。そして、残高がゼロになった銀行口座の取引明細。
示談書には、私の名前がはっきりと記されていた。
私はその書類を見つめた。指先から、すうっと血の気が引いていく。
5年前、病院に搬送される前に、由梨から何枚もの書類に署名させられた。
「入院に必要な書類だから」と言われた。
あのときの私は、痛みでまともに字を読むことさえできなかった。書類の内容も分からず、由梨に言われるがまま、名前を書いた。
――あのときから、私は罠に嵌められていたのだ。
書類を確認し終えた裕翔は、再び私を見る。その目に残っていたのは、嘲りだけだった。
「あずさ、金が欲しいならそう言えばいい。子どもまで利用して同情を引こうとするなんて……母親失格だぞ」
その言葉の意味を、奈々美も理解したらしい。焦るように私の首へ腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「ママはそんなことしてない!奈々美がお腹空いただけ。ママは朝、卵を奈々美にくれたから、自分はパンを半分しか食べてなかったの!」
裕翔の表情が、ほんの一瞬だけ強張った。
けれど、すぐさま由梨がその前に立ちはだかる。
「社長。子どもの言葉を鵜呑みにしては危険です。5歳くらいの子なら、大人に言い聞かされたことをそのまま話すこともありますから」
その言葉が途切れた次の瞬間。
奈々美の鼻から、突然、赤い血が流れ出した。
小さな身体から力が抜ける。
「奈々美!」
私は倒れ込む娘を抱きかかえ、そのまま救急外来へ駆け出した。
裕翔も後を追ってくる。
診察と検査にかかる費用は、17万2千円。
けれど、私の口座に残っているのは8万6千円しかなかった。
どうすればいいのか分からず立ち尽くしていると、裕翔がカードを取り出した。
だが、それを由梨がすぐに押しとどめる。
「まだ、この子が本当に社長のお子さんなのか確認できていません。ここでお金を出していたら、きりがありませんよ」
裕翔はしばらく黙っていた。やがて何も言わず、必要な費用の半分だけを支払った。
私は裕翔を見つめた。あまりにも馬鹿らしくて、笑いが込み上げてくる。
こんなことは、今に始まった話じゃない。
裕翔と結婚していた2年間、私が使うお金は、申請しない限り、たとえ1円でも由梨の許可なしには動かせなかった。
初めて妊婦健診を受けたとき、医師から葉酸を摂るよう勧められた。けれど由梨は、サプリにお金を使う必要はないと主張し、「野菜をたくさん食べれば十分ですよ」と言った。
つわりがひどくて、まともに食事もできなかったとき、妊婦用の栄養補助食品を買いたいと申請したこともある。
けれど、それも「そんなのただの気休め、摂る必要がありません」と言われ、却下された。
これから体重が増え、それまで着ていた服が入らなくなると思い、マタニティワンピースを買いたいと頼んだ。
すると今度は、「そんなに見た目を気にしなくてもいいでしょう。無理におしゃれをする必要なんてありません」と返された。
そのくせ後になって知った。
由梨が6桁もする高価な花束を、ただ好きだからと購入したときは、誰の許可も必要なかった。なのに、私が千円ほどのお金でお腹の子のためにサプリメントを買おうとしただけで、その必要性を由梨に説明して、認めてもらわなければならなかった。
さすがに我慢できなくなって、却下された申請書を持って裕翔のところへ行ったこともある。
けれど裕翔は、仕事の書類から目を離すこともなく、私をあしらった。
「お金の管理は、あずさより由梨のほうが詳しい。由梨に任せておけばいい」
あの頃の私は、それをただの人選ミスだと思っていた。
けれど今になって、ようやく分かった。
由梨が決めていたのは、お金の使い道なんかじゃなかった。私が裕翔の人生に、どこまで存在していいのか、それを決めていたのだ。
――けれど、今はもう縛られる必要はない。
ポケットというポケットを探った。小銭や皺の寄った紙幣など、持っていたお金を全部かき集め、どうにか不足していた分を揃える。
「あなたが奈々美ちゃんのお母さんですね?お父さんは?」
看護師に聞かれると、私はあっさりと答えた。
「亡くなりました」
それを聞いた裕翔の表情は、見る間に険しくなった。
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