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愛人の妊娠を喜ぶ種なし夫を捨てます第1話

この話は約4285字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。

私、高瀬紬希(たかせ つむぎ)は、「胃が痛い」と顔をしかめる夫のために、消化に良いお弁当をわざわざ作って社長室へと急いだ。

しかし、少しだけ開いていたドアの隙間から目に飛び込んできたのは、全面ガラス張りの窓に、今年入ったばかりの若いインターン生の女を乱暴に押し付ける夫の姿だった。

夫である高瀬奏也(たかせ そうや)は、「君の綺麗な手が汚れるから」と、食後のブドウの皮さえ丁寧に剥いてくれる、優しくて過保護な愛妻家だったはずだ。

けれど今、その大きな手は、あろうことか若い女のブラウスを急かしかけるように剥ぎ取っている。

「社長……私のお腹にはもう、三ヶ月になる赤ちゃんがいるんです。まさか、この子を私生児にするつもりじゃないですよね?」

すがるような女の甘ったるい声に、奏也は冷酷に手を振り上げ、女の頬を激しく張り飛ばした。

「身の程を知れ。お前なんかが、紬希の代わりになれるとでも思ったか?」

しかし――

冷たい言葉を吐き捨てた直後、私はこの目で見てしまった。彼が、泣き崩れる女の唇を塞ぐように、再び激しいキスを落とすのを。

部屋の中は甘い情欲で熱を帯びているというのに、弁当箱の包みを握りしめる私の指先は、凍りつくように冷え切って痛みを覚えるほどだった。

あの火事の日。

私が自分の命を投げ打ってでも、燃え盛る炎の中から這いずりながら救い出した愛しい人。

「子供なんていらない。跡継ぎなんてどうでもいいんだ。紬希さえ生きてそばにいてくれれば、俺の人生はそれだけで完璧なんだから」

病院のベッドで私の手をきつく握りしめ、ボロボロと子供のように涙をこぼしていたあの日の奏也は、もうどこにもいない。

ああ、そうか。

私がここから消えるべき時は、とうの昔に来ていたんだ。

* * *

私は、ドアを蹴り破って浮気現場に踏み込むような真似はしなかった。

ヒステリックに泣き叫んだり、相手の女を罵倒したりすることもない。

ただ、すっかり冷え切ってしまった手作りのお弁当を提げたまま、静かに彼と暮らす家へと引き返しただけだ。

「奥様!どうしてそんなに顔色が真っ青なんですか?立ちくらみですか?

ああっ、奥様、その荷物を早く手放してください!華奢なお体に傷でもついたら大変です!」

玄関を開けるなり飛んできた、長年我が家で働いてくれているお手伝いの松本(まつもと)の悲鳴のような声で、私はようやく我に返った。

無意識のうちにランチバッグの持ち手をきつく握りしめていたのだろう。

私の手のひらには、くっきりと二本の赤い鬱血の痕が残っていた。

たかが赤い痕がついただけなのに、松本はオロオロと私の周りをうろたえ回っている。

無理もない。

あの凄惨な火事の後、私は過度なショックとストレスから造血機能に障害を抱え、血小板の数値が慢性的に低い状態になってしまった。

ちょっとした傷でも血が止まりにくく、少しぶつけただけでも酷い内出血になって治りにくいのだ。

私がかすり傷一つ負うたびに、奏也は自分のことのように青ざめ、激しく自分を責め立てていた。

その異常なまでの過保護さに、いつしか家で働く使用人たちまでが神経質になってしまったのだ。

私の手のひらから血が出ていないことを確認して、松本はふうっと安堵の息を吐き出した。

そして、少し呆れたような顔をして小声でぼやき始めた。

「旦那様も困ったものですね。奥様のお体では妊娠も出産もリスクが高すぎるというのに、あんなに子宝に執着なさるなんて。

奥様からも少し言ってやってくださいよ。毎日毎日、ご自分で得体の知れない煎じ薬なんか飲まれて……

万が一、本当に奥様がご懐妊なさったら、そのお体でどうやって産むつもりなんでしょうか」

言い過ぎたとハッとしたのか、松本はそれ以上言葉を続けることなく口をつぐんだ。

私は彼女の言葉を否定することもできず、ただぼんやりと宙を見つめていた。

奏也の、あの執念にも似た「子作り」への渇望。

子宝に恵まれると有名な山奥の神社まで赴いた彼は、何百段もある険しい石段を、一段上るごとに土下座をして祈り続けた。

スーツの膝を破り、額から血を流してまで、たった一つの「子授けのお守り」を手に入れてきたのだ。

どこからか怪しげな民間療法を見つけてきても、決して私に試させることはなかった。

その代わり、吐き気がするほど泥臭くて苦い薬草の煎じ汁を、毎日毎日自ら進んで飲み干していた。

「不妊の悩みで、女の人ばかりが薬を飲んで辛い思いをするなんて絶対におかしい。

君の体に効く薬なら、俺が飲んだって同じように効果はあるはずだ。紬希にはもう、これ以上の苦痛を味わわせたくないんだ」

あの真剣な眼差しでそう言われてから、私は彼が薬を飲むのを止めるのをやめた。

彼の不器用で深い愛情に胸を打たれた私は、彼に内緒で海外の権威ある専門医に連絡を取り、密かに最新の精密検査と治療を受けていたのだ。

今日、わざわざ会社にお弁当を届けに行ったのも、彼を驚かせたかったから。

――私の体はもうすっかり回復して、あなたの子供を産めるようになったわ。

そんなとびきりのサプライズをプレゼントするつもりだった。

まさか、そのサプライズの箱を開ける前に、社長室の窓際で繰り広げられるインターン生との濃厚な情事を見せつけられるだなんて、思いもしなかったけれど。

いつも私の髪を、頬を、壊れ物のように優しく撫でていたあの大きな手が。

いやらしく蠢きながら、若いインターン生の短いタイトスカートをめくり上げていた光景が、脳裏に生々しくフラッシュバックする。

胃の奥から、ドロリとした耐え難い吐き気が込み上げてきた。

社長室の大きな窓際で、二人の体が生々しく絡み合う音や、甘ったるい嬌声が、まるで耳元を飛び回る羽虫のように私の脳内でブンブンと鳴り響いていた。

「結城(ゆうき)先生、離婚協議書の作成をお願いします。

ええ……話し合いから離婚届の提出まで、すべて代理で進めていただけませんか。もう二度と、あの人の顔を見たくないんです……」

顧問弁護士との通話を終えようとした、まさにその時だった。

ガチャリと寝室のドアが開いて、奏也が足早に入ってきた。

彼は私の青白い顔を見るなり、血相を変えて駆け寄ってきた。

「紬希?今、誰の顔を見たくないって言ったんだい?

誰かに嫌なことでも言われたのか?俺に言ってごらん。どんな相手だろうと、俺が絶対に解決してみせるから」

私の前にしゃがみ込み、不安げに顔を覗き込んでくる彼は、いつだって私のすべてを守ってくれる、頼もしくて完璧な夫の顔をしていた。

――もし、彼が脱ぎ捨てようとしているスーツの襟元に、べっとりと擦り付けられた真っ赤なルージュの跡さえなければ。

「……誰も私に嫌なことなんて言ってないわ。ただ、少し気分が塞いでるだけ」

ただ、もうあなたのことがいらなくなっただけ。

そう突き放せばいいのに、楽しかったあの頃の記憶が足枷となって、私の心を雁字搦めにしていた。

彼を見つめているうちに、堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちる。

私の涙を見た途端、奏也の目まで痛ましそうに赤く潤んだ。

「ごめん……全部俺のせいだ。君が何を悩んでいるのか、どうしてそんなに悲しんでいるのかすら気づいてやれないなんて。俺は本当にダメな夫だな……」

そう言って、自らを責めながら私の頬の涙を指で拭う彼の仕草は、心の底から私を愛し、私を何よりも大切にしているようにしか見えない。

けれど、視界の端にチラつく鮮やかなルージュの赤が、「全部嘘っぱちだ」と私を嘲笑っていた。

ああ、私が彼に捧げたこの10年の歳月は、全部ドブに捨てたのと同じだったんだ。

昔の彼は、こんな人じゃなかった。

私と結婚したあの日、彼は誓ってくれたのだ。

「紬希はただ、毎日笑っていてくれればいい。外で汗水垂らして稼ぐのは、男である俺の役目だからね」

そして、彼はその言葉通りに行動で示してきた。

この10年間、彼は文字通り身を粉にして働き、私の個人資産には指一本触れようとしなかった。

実家である桐生(きりゅう)家にも、決して頼ろうとはしなかった。

桐生家の一人娘である私が一言口添えすれば、彼の会社の事業なんて一瞬で軌道に乗るはずだった。

それでも彼は、過労で血を吐いて倒れそうになっても、私に助けを求めることはなかった。

「君みたいな素晴らしいお嬢さんをもらっておいて、君の親にまで甘えるような真似をしたら、君の顔に泥を塗ることになるからね」と、不器用に笑うだけだった。

それでも、桐生という巨大な資本の影は否応なく彼を助けてしまっていた。

取引先が「桐生家の婿殿だから」と便宜を図るたびに、彼は私の前でポロポロと涙を流して「男として情けない」と謝り続けた。

その涙を見るたびに、私は彼を選んだ自分の決断は間違っていなかったのだと、密かに安堵していた。

当時、私の周りには名だたる名家の御曹司たちが群がっていた。

それなのに、私はごく一般的な中流家庭で育った、取るに足らない小さな会社の跡継ぎでしかない彼を選んだ。

理由はただ一つ。

彼が誰よりも純粋に私を愛し、私のどんな我儘な性格も、すべて優しく包み込んでくれたからだ。

結婚後、過度なストレスによる免疫異常で、私の体が「極めて妊娠しにくい状態」だと判明した時のことだ。

ひどく落ち込む私を笑わせるためだけに、彼はこっそりプロの教室に通って手品を習い、不格好なピエロの真似事までして見せてくれた。

会社の社長という肩書きがありながら、私の機嫌を取るためなら、人前でおどけて見せることすら厭わなかったのだ。

しかし、子供ができないことで、彼の親族からの風当たりは日に日に強くなっていった。

家柄の釣り合わない嫁というだけでも面白くないのに、跡継ぎすら産めないのかと。

ある日、ついに限界を迎えた奏也は、自分の両親に向かって真っ赤な顔で机を叩きつけた。

「俺は紬希がいればそれでいい!もし紬希が産めない体なら、俺の代で高瀬家の血が絶えても構わないんだ!

これ以上彼女を苦しめるような真似をするなら、親だろうが親戚だろうが、全員俺の人生から出て行ってくれ!」

その日を境に、彼は自分の実家と一切の連絡を絶った。

私たち夫婦の絆の深さは、社交界の奥様たちの間でも有名な話になり、誰もが奏也の深い愛情を羨んだ。

その時の私は、心底「自分は人生の勝者だ」と信じ切っていたのだ。

けれど、高層ビルの社長室にあるあの全面ガラス張りの窓の前で、私の長年の誇りも、夫への信頼も、見事に粉々に打ち砕かれた。

ずっと前から周到に用意されていた、酷く悪趣味なドッキリ番組のピエロにでもなった気分だ。

惨めで、滑稽で、笑い飛ばすしかないほどに。

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