愛を知った時には、君はもういない第2話
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心美が通話を終えて振り返った瞬間、視線の先にあったのは、狼狽の色を隠しきれない哉治の瞳だった。
彼は大股で歩み寄ると、彼女の手首を強引に掴み上げた。
「心美、僕たちが本当に離婚するわけないだろう!
何度も説明したはずだ。これは、急場を凌ぐための一時的な方便に過ぎないんだって。離婚が成立するまでに、必ず唐沢家の問題を片付けると約束する」
彼の声は微かに震えていた。長い腕を伸ばし、心美を抱き寄せようとする。
「今回が最後だ。このあとの埋め合わせは、今の何倍にもして君に尽くすと誓うから」
心美は静かに一歩下がり、彼の抱擁をすり抜けるように避けた。そして、冷淡な声で言った。
「聞き間違いよ。さっきのは、お父さんの友人の話よ。つい最近、離婚の手続きが完了したんだって」
哉治の強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。彼は安堵のため息をついた。
「なんだ、そうだったのか。驚かせないでくれ。本当に、心臓が止まるかと思ったよ」
その夜、哉治が碧水苑の屋敷に戻ることはなかった。
心美には分かっていた。彼が今、詩織のそばにいることを。
案の定、夜。枕元でスマホの画面が淡く光った。詩織からのメッセージだった。
そこに添えられていたのは、仲睦まじい二人のツーショット写真。
写真の中の彼女は、満面の笑みを浮かべていた。その後ろで哉治が、慈しむような眼差しを彼女に注いでいる。
その熱を帯びた瞳は、心美が三年の月日の中で一度として向けられたことのないものだった。
続いて届いたのは、追い打ちをかけるような一文だった。
【心美、これまで哉治を支えてくれてありがとう。そして……彼を私に返してくれて、本当に感謝するわ】
心臓を針で不意に突き刺されたような、鋭い痛みが走る。
凍えるように冷たくなった指先の震えを抑え込み、心美は突き放すような一言を撃ち返した。
【忘れないで。まだ離婚の手続きは終わっていないわ。今の私は、まだ哉治の法的な妻よ】
詩織からの返信は、ほぼ即レスだった。
【私が戻ってきて、哉治を奪ったって怒っているのね。でも、私は本気で哉治を愛しているの。どうすれば、あなたの気が済むのかしら?】
その被害者ぶったあざとい言葉に、反吐が出るほどの嫌悪感が込み上げた。
心美の指先が画面を叩く。
【なら、死ねばいいんじゃない?あなたが死んだら、許してあげるわ】
それきり、返信は途絶えた。
彼女はスマホの電源を切り、自分を殻に閉じ込めるように毛布を被った。
今夜は、これまでのように、帰らぬ人を待ち続けて夜を明かすことはしない。
だが深夜、心美は乱暴に体を揺さぶられ、無理やり引き起こされた。
夢うつつのまま目を開けると、血走った目で自分を覗き込む哉治の、血相を変えた顔が飛び込んできた。
半睡半醒の意識の中で、余裕を失い彼の声が耳を打つ。
「心美!詩織に何をしたんだ!」
哉治は彼女の両肩を掴み、骨が砕けるかと思うほどの力で激しく揺さぶった。痛みで唇から血の気が引き、心美はようやく、彼が何を問い詰めているのかを理解し始めた。
彼女は力任せに彼を突き飛ばす。
「二人で一緒にいたんでしょう?私に何ができるっていうのよ」
哉治の瞳に、縋るような哀願の色が混じる。
「詩織は……僕たちが偽装離婚だなんて知らないんだ!本当に僕が君と別れるんだと思い込んで……
彼女は根が真っ直ぐなんだ。今は罪悪感に押し潰されそうで、君に合わせる顔がないって、自分を責めてばかりで」
「もういい」
心美は鋭い声で彼を遮った。
「真夜中に乱暴に叩き起こされて、あなたの幼馴染がいかに清らかで心優しいかなんて、そんな惚気話を聞かされる身にもなってよ」
哉治は数秒間呆然とし、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「彼女に、『死ね』と言ったのは本当か?」
確かに、そう送った記憶がある。
心美は顔を上げると、真っ向から彼の視線を射抜いた。
肯定を意味する彼女の眼差しに、哉治は拳を握りしめ、喉を詰まらせた。
「いいか、詩織は遺書を残したんだぞ!僕たちの仲を裂くべきじゃなかった、君に申し訳ない……そんな言葉まで遺して!今、行方不明なんだ!」
心美は鼻で笑った。
「ふうん。なら、一刻も早く探しに行って、死ぬ気で引き止めればいいじゃない。こんなところで油を売ってないで、さっさと行ったら?」
哉治の態度は、なりふり構わぬほど卑屈になっていく。
「今、詩織の居場所に心当たりがあるのは君だけなんだ!
心美、お願いだ。教えてくれ……頼む!」
心美はこれ以上言葉を費やすのも馬鹿々々しくなり、スマホをひったくるように掴んだ。
詩織とのトーク画面を開くと、彼の顔に叩きつけるような勢いで画面を突き出した。
「自分の目で確かめなさいよ。私は彼女の居場所なんて知らないわ」
哉治は食い入るように画面を掠め、心美が嘘をついていないと確信するや否や、すぐさま部屋を飛び出そうとした。
だが、ドアの前で彼は不意に足を止め、振り返った。
その眼差しは凍てつくように冷たく、剥き出しの憎悪と脅迫の色を帯びていた。
「もし詩織に万が一のことがあったら、君を……」
「命で償わせる、とでも言いたいの?」
心美は、乾いた笑みを浮かべた。
「安心して。彼女は絶対に死なないわよ。だって――」
心美は視線を上げ、最後の一撃を静かに放った。
「まだ『沢田夫人』の座を手に入れていないんだもの」
かつてあれほど穏やかで、誰に対しても温厚だった人が、詩織のために「命で償え」とばかりに妻を脅すようになるとは。
凄まじい轟音を立ててドアが閉められ、一人残された心美を、毒が回るような鈍い痛みが四肢の先までじわじわと蝕んでいった。
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