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愛を知った時には、君はもういない第3話

この話は約2581字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。

「嘘でしょ?離婚して、F国に戻るっていうの?」

コーヒーカップを持つ安藤遥(あんどう はるか)の手がぴたりと止まった。彼女は目を見開き、信じられないといった様子で心美の顔を覗き込む。

心美は視線を落としたまま、手元のラテを静かにかき混ぜ、小さく頷いた。

遥は身を乗り出し、声を潜める。

「あんなに死ぬほど愛してたじゃない。それを今さら、そんな簡単に吹っ切れるわけ?」

心美は唇を噛み、喉の奥に込み上げてきた苦い感情を無理やり押し殺した。その声は、今にも消えてしまいそうなほど儚かった。

「……もう、愛してないの」

「どうして?」

遥が畳みかけるように問う。

心美は視線を上げ、窓の外のどんよりとした曇り空を見つめた。その声は、驚くほど穏やかだった。

「私の居場所がない世界に、無理やり入り込もうとするのはもうやめたの。疲れちゃったし……もう、いらないかなって」

遥はいたたまれなそうに心美の肩を叩き、深く溜息をついた。

「そうね。前から言っていたけど、あの頃のあなたは哉治一筋で、何を聞いても耳に入らなかったもの。

あの男のために国内に残って、家族も友達も遠くにやったまま、四六時中あの男の顔色を窺って……見てよ、今のあなた。瞳の輝きが消えかかってるわ」

心美は鼻をすすり、無理やり口角を上げて笑ってみせた。けれど、その瞳には隠しきれない涙が滲んでいた。

「大丈夫。正式に離婚の手続きが終わって、全部吹っ切れたら……きっと、昔の私に戻れるから」

言い終えた直後、何気なく視線を向けたカフェの片隅で、心美の体は凍りついたように動かなくなった。

その席に座っていたのは、哉治と詩織だった。

二人は肩が触れ合うほど身を寄せ合い、哉治は慈しむような手つきで、そっと詩織の頬をなぞっている。

彼が低く何かを囁くと、詩織は顔を赤らめて愛らしく俯き、恥ずかしそうに微笑んだ。

心美の視線を追った遥が、その親密な光景を捉える。次の瞬間、遥の心の中で怒りの火が勢いよく燃え上がった。

「やっぱりね!あなたが急に踏ん切りがついた理由が分かったわ。あのクズ男、外でこんな不潔な真似をしてたわけ?」

心美が止める間もなく、遥は二人のもとへ突き進んでいった。

「哉治!白昼堂々、家庭がある身で他の女とベタベタして、恥ずかしくないの!」

哉治の顔が一瞬で土気色に変わる。

詩織は慌てて立ち上がり、必死に弁解を始めた。

「違うの、誤解だよ!

さっきまで絵を描いていて、顔に絵の具がついちゃったから……哉治は、それを拭いてくれていただけなの!」

客の少ない店内だったが、好奇の視線が次々と四人へと注がれる。

心美は、なおも食ってかかろうとする遥を制止した。そして、暗く沈んだ哉治の瞳を真っ向から見据え、嘲笑を浮かべて言い放つ。

「私の言った通りでしょ?狂言自殺なんて……結局は同情を引くための演技だったわけね」

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、詩織の瞳には涙が溢れ、今にも零れ落ちそうな悲劇のヒロインを完璧に演じてみせた。

哉治はまず優しく詩織を宥め、彼女が落ち着くのを待ってから、冷酷な眼差しを心美に向けた。

「詩織は、君が世間から後ろ指を指されないようにと、あの時必死に思い留まったんだ。心美、いい加減にしろ。今の無礼な言い草、彼女に謝罪してほしい」

あまりの言い草に、心美は呆れ果てて乾いた笑いを漏らした。遥を連れて立ち去ろうとするが、詩織が急にその手首を掴んだ。

「心美、待って!せっかくこうして会えたんだもの、一緒に食事でもどうかな?それで、わだかまりを解きたいの」

哉治もそれに同調するように、ごく自然に言葉を添えた。それはまるで、慈悲でも与えるかのように逃げ道を作ってやっているという、ひどく恩着せがましい態度だった。

「大人になると『ごめん』の一言が難しいのは分かっている。せめて一緒に食事をすることで、詩織への謝罪に代えてくれ」

これ以上騒ぎを大きくしたくない。たかが食事、それくらい受けて立とうじゃない。

心美は憤る遥の手をそっと握って落ち着かせると、堂々と二人の向かいに腰を下ろした。

食事の間、哉治の関心はすべて詩織に注がれていた。絶え間なく料理を取り分け、喉は渇いていないか、寒くないかと細やかに気を配る。

何より心美の神経を逆撫でしたのは、重度の潔癖症であるはずのこの男が、自ら海老の殻をいくつも剥き、詩織の小皿に丁寧に並べていたことだった。

遥は耐えきれず、箸を叩きつけるように置いた。

「ねえ、哉治。私の記憶が確かなら、私の隣に座っているのがあんたの妻なんだけど?」

詩織の顔に一瞬だけ気まずそうな色がよぎったが、すぐに取り繕うような柔和な笑みを浮かべた。そして、自分の皿にある海老の一尾を、心美の皿へと移した。

「心美、気にしないで。私と哉治はずっと一緒に育った幼馴染だから。彼は私を世話するのに慣れてるだけで、私のことも妹だと思ってるのよ」

……妹。

二人揃って、示し合わせたように同じことを言う。

心臓を直接握りつぶされるような激痛に、心美は呼吸さえままならなくなった。

食後、遥は仕事の急用で先に店を出た。

心美は至急確認が必要な書類を取りに一度家に戻る必要があり、哉治も碧水苑の屋敷へ帰ると言うので、二人は同じ車に乗り込むことになった。

車内は、耳を刺すような静寂に包まれていた。

突然、哉治のスマホ画面が光った。一目内容を確認すると、彼は運転手に告げた。

「路肩に止めろ」

そして、心美に向き直る。

「会社で急用ができた。君はここから自分で帰ってくれ」

心美が窓の外を見ると、そこは人里離れた郊外だった。碧水苑まではまだ十キロ以上ある。

あいにくの空模様さえも、彼女に追い打ちをかける。激しい雷鳴が轟き、重苦しい黒雲が空を飲み込もうとしていた。今にも豪雨が降り出しそうだ。

だが心美は何も言わなかった。無言でバッグを手に取り、ドアを開けて車を降りる。

走り去る車のタイヤが跳ね上げた砂埃が、彼女の視界を濁らせた。

タクシーを呼ぼうとスマホを取り出したが、間の悪いことにバッテリーが切れ、画面は真っ暗なままだった。

歩き出してわずか十数メートル。大粒の雨が、バケツをひっくり返したような勢いで叩きつけ始めた。

ずぶ濡れになり、足元もおぼつかない惨めな姿。氷のように冷え切っていく身体とともに、かつてあれほど熱く燃えていた彼女の心も、今はもう、完全に冷え切ってしまった。

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