愛を知った時には、君はもういない第1話
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「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。
結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。
無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。
初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)は車の窓すら開けず、「立て込んでいる」と一言残して去った。
後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。
九度目の今回、哉治のほうから離婚届を差し出してきた。
「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ」
哉治のその声は、かつてと変わらず優しかった。
「詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結婚させられそうなんだ。彼女をそんな泥沼に突き落とすわけにはいかないんだ」
六年もの歳月を捧げて愛したこの男を、心美は静かに見つめていた。そして、不意に自嘲的な笑みを漏らした。
結局、哉治の妻である自分の存在は、唐沢詩織(からさわ しおり)という女の涙一粒にすら、及ばなかった。
* * *
「結婚は人生の墓場である」という言葉があるが、江崎心美(えさき ここみ)の墓に関しては、もはや跡形もなく暴かれ、墓標すら残されてはいなかった。
結婚して三年、離婚を切り出したのはこれで九度目になる。
無限ループに閉じ込められたバグのように、彼女は再燃する期待と冷え切った絶望の狭間で、出口のない葛藤を繰り返していた。
初めて離婚を切り出した時、彼女は交通事故に遭い、通りを鮮血で染めた。だが、沢田哉治(さわだ さいじ)の車は彼女の傍らを無情に通り過ぎていった。
固く閉ざされた窓の向こうから、電話越しに投げ捨てられたのは、氷のように冷淡な「立て込んでいる」という一言だけだった。
後に知ったことだが、彼が「立て込んでいる」と吐き捨てたその時間は、別の女に特注のケーキを届けるべく、自ら空港へと車を飛ばし、プライベートジェットに乗り込むためのものだったのだ。
心美が離婚を切り出すと、哉治はリビングを埋め尽くさんばかりのバラを贈り、彼女の胸に宿ったばかりの決意を、言葉にする前に無理やり封じ込めてしまった。
二度目のこと。彼は気温四十度の炎天下、車が飛び交う高架道路に彼女を置き去りにした。
心美は虚脱状態で歩き続け、意識を失った。
ようやく目覚めた時――その腹の中に宿っていた赤ちゃんの命は、すでに音もなく消えていた。
彼は後悔に満ちた顔で彼女の手を握り、言い訳を並べた。
「詩織は……妹のような存在なんだ。身寄りもなく、一人で苦労しているから放っておけなくて」
心美は血走った目で問い返した。
「ただの妹なの?それとも、愛人なの?」
悲しみと憤りのまま、彼女は再び離婚届を哉治の前に叩きつけた。
すると彼はオークションで競り落とした宝物を差し出し、優しく囁いた。
「夫婦なんて、一人がわがままを言って騒ぎ、もう一人がそれを笑って受け流す。その繰り返しじゃないか。
離婚が成立しない限り、君の気が済むまで僕がいくらでも付き合ってあげるよ」
心美はまるで絶望に駆られたギャンブラーのように、自らの身を削るような自滅的な振る舞いで、彼からのほんの僅かな慈しみを繋ぎ止めようとしていたのだ。
だが今回、哉治は初めて、自ら離婚届を彼女の前に差し出した。
「心美、離婚しよう。一ヶ月だけでいい、偽装離婚だ。
詩織の家が倒産しかけている。彼女の父親に無理やり老いぼれと結婚させられそうなんだ。彼女をそんな泥沼に突き落とすわけにはいかないんだ。
彼女を助けたら、すぐに君のところへ戻るよ」
心美は静かにその言葉を聞いていた。すでにズタズタになった心は、今この瞬間、完全に凍てついた。もはや最後にあがこうとする気力さえ、今の彼女には残っていなかった。
彼女は泣きもせず、騒ぎもせず、ただ静かに頷いた。
区役所の窓口で、職員は手慣れた様子で離婚届を受け取り、冗談めかして言った。
「今回は、何日後に取り下げに来る予定ですか?」
心美は顔を上げ、幾年もの月日をただ一途に愛し続けてきたその男を見つめた。
彼は穏やかな態度で職員へ謝罪していた。端正な横顔は相変わらずで、その生まれ持った余裕は、あまりに容易く見る者の心をかき乱す。
かつて、彼女もその恋の虜となった大勢の中の一人だった。
六年前、父親の帰国に同行した際、哉治に一目惚れした。
海外の名門校への進学を投げ出し、三年間なりふり構わず彼を追いかけ回した。
そして、彼の祖母が病床に伏し、いよいよ最期という時に結婚を急かした――そんな切迫した状況の中で、ようやく、片膝をつく彼からのプロポーズを勝ち取った。
結婚後、哉治は確かに心美をこの上なく甘やかした。
生理の日になれば、彼はどんな時でも仕事を放り出して駆けつけ、その掌の温もりで彼女の痛みを和らげた。
彼女が喜ぶ顔が見たい一心で、山一面を埋め尽くすほどのバラを植えた。
彼女が嫌いだと言えば、長年の喫煙習慣さえ断った。
ようやく苦難の果てに、本当の幸せを掴んだのだ。彼女はそう信じて疑わなかった。
あの日、酔った哉治に抱きしめられ、「詩織」と何度も名前を呼ばれるまでは。
その瞬間、彼女は理解した。自分は彼にとって、手に入らなかった最愛の人の代わりを埋めるための、ただの妥協の産物でしかなかったのだと。
「受理されて正式に離婚が成立するまで、しばらく時間がかかります」
職員の声が、冷え切った回想から彼女を現実に引き戻した。
彼女は静かに頷いた。
「ありがとうございます」
区役所を出ると、下腹部になま暖かい何かが溢れ出す感覚が走った。彼女は無意識に眉をひそめた。
「どうした?」
哉治が気づき、相変わらず優しい声で尋ねた。
「具合が悪いのか。トイレまで付き添おうか?」
「いいえ、結構よ」
バッグを握りしめる指先が白く強張るほどに力んでいたが、それでも心美は、差し出された哉治の手を拒むようにして避けた。
トイレの個室でどうにか身なりを整え終えたその時、ドアの外から職員たちの話し声が漏れ聞こえてきた。
「ねえ、聞いた?沢田社長がずっと想い続けていたあの人、唐沢詩織(からさわ しおり)、今日帰国したんだって」
「道理でね。あんなに愛妻家を演じておいて、あの人が戻ってきた途端に即離婚なんて」
「噂じゃ、今の奥さんは略奪愛だったらしいわよ。彼女さえ割り込まなければ、沢田社長と唐沢……」
「ずいぶんと、お暇なお仕事のようね」
心美は勢いよくドアを開け、水音の中で鏡に映る怯えた二人の職員を冷たく見据えた。
「今の言葉だけで、あなたたちを名誉毀損で訴えるには十分よ。やってみましょうか?」
二人は瞬時に顔面蒼白になり、一言も返せぬまま、逃げるようにその場を後にした。
トイレに彼女一人取り残される。
鏡の中に映っていたのは、血の気が完全に引き、雪のように真っ白になった心美の顔だった。
結局、すべてを捧げたこの感情の中で、自分が何をしようとも、周囲の目には滑稽な笑い者にしか映っていなかったのだ。
彼女はスマホを取り出し、父親の江崎凌久(えさき りく)に電話をかけた。
「お父さん、F国に行きたいの」
凌久は弾んだ声で答えた。
「ようやく来る気になったか。今回は何日くらい泊まるんだ?」
「もう、戻りたくないの」
彼女はそっと目を閉じ、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。
「お父さん、私、もうここには戻りたくない」
電話の向こうで沈黙が続き、やがてため息が聞こえた。
「……そうか。便が決まったら教えなさい。迎えに行く」
「離婚の手続きが正式に完了したら、すぐに行くわ」
「手続きが正式に完了だと?」
地を這うような低い声が、トイレの入り口から響いた。
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