愛を灰にして、私は自由になる第2話
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そうだ。母は景一のことを本当の我が子同然に慈しんでいた。
彼は母の教え子だった。
産まれてすぐに実母を亡くした彼は、幼い頃、いつも継ぎ接ぎだらけの惨めな格好で登校していたという。
母は自分の給料を削って彼に新しい服を買い与え、人並みの自信を持てるよう身なりを整えてあげたのだ。
彼が社会人になってからも、母は彼がコンビニ弁当ばかりで済ませて、栄養を偏らせているのではないかといつも案じていた。だから、わざわざ自分の手で料理をこしらえては、会社まで届けていたのだ。
時には嫉妬してしまうほどだった。母は実の娘である私以上に、景一に尽くしていたのだから。
私は肺の奥まで深く息を吸い込み、込み上げる感情を無理やり押し殺した。
「あなたの謝罪も、贈り物も……お母さんにはもう二度と届かないわ。
ねえ、聞こえているの?」
景一は眉間に深い皺を寄せ、不快感を露わにした。「梨花、いい加減にしろ。いつまでそんな子供じみた駄々をこねているんだ?
婚約を勝手に解消したことだって、俺は根に持たず、改めて結婚してやると言っているんだぞ。
謝ったじゃないか。これ以上、俺にどうしろって言うんだ!」
私は涙に顔を濡らしながら、声を絞り出した。「景一……お母さんを返して。お願いだから、お母さんを私に返してよ!」
彼は、私のことが心底理解できないといった風に、侮蔑の入り混じった視線を向けてくる。
「お前、本当にどうかしてるよ。もう話にならないな。
いいか。悦子さんが帰ってきたら、どっちが理不尽なことを言っているか、はっきりさせてもらおう」
私は自嘲気味に笑った。「お母さんは、もう帰ってこないわよ」
景一は怪訝そうに私を見た。「何を言ってるんだ。悦子さんはどこか旅行にでも行ったのか?
自分の親が旅行に出たっていうのに、連絡一本入れてないのか?それでも実の娘かよ。少しは自分から様子を伺うくらいの気遣いを見せたらどうなんだ」
そう吐き捨てると、彼は苛立ったように自分のスマホを取り出し、母の番号を呼び出そうとした。
その時、特定の相手からであることを知らせる着信音が、静まり返った部屋に鳴り響いた。空気が一瞬で凍りつく。
スピーカーから、か細い女の声が漏れ聞こえた。
「景一……そこにいる?」
「ああ、いるよ」
「……一人で家にいたら、お薬がなくなっちゃって。病院まで、連れて行ってくれないかな……」
景一は迷うことなく承諾し、そのまま部屋を飛び出していった。
母へ電話をかけようとしていたことなど、その時の彼の頭からは、もう完全に消え去っていた。
景一が去った後、私は一人で荷物をまとめ始めた。
この家を出る。もう、決めたことだ。
しばらくして、景一から電話があった。
「梨花、一つ聞きたいんだけど。女の子のナプキンって、どこのメーカーのがいいんだ?」
隣で舞奈が楽しそうに囃し立てる声が聞こえる。
「だめよ、それはカンニングだわ。自分で考えなきゃ。
梨花、教えちゃだめだよ……
梨花、景一があなたの婚約者だったのに、こんなことも知らないなんて。私がたっぷりしつけてあげる。
安心して、最高な旦那様にして返してあげるから」
挑発に満ちた声。
私は何も答えなかった。二人が睦み合う声が絶え間なく流れ込み、心臓がズキリと疼く。
以前の私なら、独占欲を剥き出しにして怒り狂っていただろう。
けれど今の私は、ただ「ええ」とだけ返し、そのまま通話を切った。
それから長い沈黙の後、再びスマホが鳴った。
私は無意識に指を滑らせて通話ボタンを押していた。
電話の向こう側から、女の甘ったるい声が響いた。
「ねえ景一、私のこと、愛してる?」
「ああ、愛してるよ」
「愛してるのに、どうして梨花と結婚しようとしたの?」
景一の慈しむような声が続く。
「君が言い出したことじゃないか。『まずは梨花と結婚して、予行演習をしてきなよ』って。それが上手くいったら、次は君と一緒になる番だって約束しただろ?
まさか、自分が言ったこと、もう忘れちゃったのか?」
私は身代わりですらなかった。ただの「実験体」に過ぎなかったのだ。
十年間、彼を愛し抜いてきた時間はただのサンプルデータだった。なんて滑稽で、惨めな話だろう。
これ以上、一秒たりとも聞いていたくなかった。涙で視界が歪み、私は震える指で通話を叩き切った。
直後、胃の底から激しい不快感がこみ上げた。私はトイレに駆け込み、胃の中が空っぽになるまで、何度も、何度も戻し続けた。
這うようにして戻ったベッドは、氷のように冷たかった。涙が目尻から溢れ、枕をじっとりと濡らしていった。
景一は、その夜一度も帰ってこなかった。私は、母の残したこの家を売る決意を固めた。
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