愛を灰にして、私は自由になる第3話
この話は約2254字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
不動産屋の店内に足を踏み入れると、そこには景一と舞奈がいた。
担当者が私に気づき、相好を崩して近寄ってくる。
「浅井様、お待ちしておりました!ようやくあの家を売却してくださる決心がついたのですね」
景一が不審そうに眉をひそめた。「……売却?どこの家のことだ?」
私が制止する間もなく、担当者が母の家の住所を口にする。
「梨花!お前、悦子さんに断りもなく家を売るつもりか?正気かよ!
あの家は、悦子さんが一生分の蓄えを叩いて手に入れた、大切な場所なんだぞ!それに、俺たちの……」
俺たちの思い出が詰まった場所だろう。そう言いたげな景一の言葉を、私は冷たく遮った。
困惑する担当者が、おそるおそる尋ねる。
「……あの、結局のところ、売却されるのでしょうか?」
私の声に迷いはなかった。「売ります。この家は彼とは一切関係ありませんから」
舞奈が慌てたふりをして口を挟む。「景一、梨花にもきっと何か事情があるんだよ。そんなに怒らないであげて」
景一は鼻で笑うと、蔑むような視線を私に向けた。「事情なんてあるもんか。どうせまた、結婚式の件で拗ねて当て付けをしてるだけだろ。
今すぐ悦子さんに電話してやる。お前が勝手なことをしないよう、たっぷりお灸を据えてもらえ」
景一は迷わずスマホを取り出し、母に電話をかけた。だが、スピーカーから流れるのは無機質な呼び出し音ばかり。彼は苛立ちを隠さず眉をひそめた。
「おかしいな、悦子さんが出ないぞ」
繋がるはずがない。その番号の持ち主は、もうこの世にはいないのだから。
隣で舞奈が、景一の顔を覗き込むようにして宥めた。
「悦子さん、お忙しいんじゃない?それより、今日はずっと私の家探しに付き合ってくれるって約束したでしょ。あんまり待たされると、私、怒っちゃうよ?」
景一は私を一瞥し、吐き捨てるように言った。「……分かった。先に行ってる。梨花、後で家に戻ったら、もう一度結婚式のことを話し合おう」
けれど私は、この場ですべてに決着をつけるべきだと思った。
ところが、急いで手続きを済ませて店を飛び出した時、そこに景一の姿はもうなかった。
どこかで彼が待っていてくれるのではないか。そんな淡い期待を抱いていた自分が、たまらなく惨めで、馬鹿みたいに思えた。
思い出せば、彼だってかつては私の手を引いて二人で住む家を探し、ここでどんな生活をしようかと、幸せな未来を語り合っていた。
帰宅すると、私は用意していた婚礼の品々をすべて火に投げ込んだ。
母が夜なべをして縫い上げたあのウェディングドレスも、無情な炎に呑み込まれた。
背後から、怒鳴り声が響いた。
「梨花、何をしてるんだ!」
景一は激しく燃え上がる火を目の当たりにし、その瞳に明らかな焦燥を浮かべた。
「明日が式だっていうのに、ウェディングドレスを焼くなんて……何を考えてるんだ!」
彼は火の中からウェディングドレスを救い出そうと手を伸ばしたが、あまりの熱さに手を引っ込めた。
純白だったはずのウェディングドレスが、見る影もなく無残な黒い塊へと変わり果てていくのを、彼はただ苦々しく見守るしかなかった。
景一は重いため息をつくと、自分に言い聞かせるように、いらだたしげな声を絞り出した。
「……まあいい、まだ間に合う。今すぐ代わりのドレスを特注させるから」
私は冷ややかな笑みを浮かべたまま、短く答える。
「……結構よ。もう必要ないわ」
景一は突如として私を抱き寄せ、その大きな手で私の腰を強く引き寄せた。
それは、自らの不実さを愛情で塗りつぶそうとするかのような、白々しくも打算的な機嫌取りだった。
「梨花、相変わらず意地を張るんだな。お前は本当に俺を困らせる……」
馴染みのある体温が記憶を呼び覚まし、一瞬だけ鼻の奥がツンとした。堪えきれない涙が視界を滲ませる。
けれど、その温もりは涙がこぼれ落ちるよりも早く、無慈悲に奪われた。
景一のスマホが不意に鳴った。彼は私を放すと、背を向けて電話に出た。その瞬間、彼の横顔に、私にはもう二度と見せることのない甘い慈しみの色が浮かんだ。
「梨花、急に仕事が入った。一度会社に戻らなきゃいけない」
彼は一度も振り返ることなく、部屋を飛び出していった。
私はその背中に向かって、枯れ果てた声を絞り出した。「……本当に会社に行くの?」
嘘をついているのは分かっている。
「ああ」彼は淡々と答えた。
「嘘つき」その言葉を飲み込んだ瞬間、スマホに通知が届いた。
【梨花、後でオークション会場で会いましょう】
舞奈からのメッセージだ。
そのオークションには、母が生前何よりも大切にしていたエマイユのペンダントが出品されていた。
離れる前に、せめて母の形見だけは手元に残したかったのだ。
オークション会場。景一は、隣に座る舞奈の耳元で甘く囁いていた。
「舞奈、今日は君の誕生日だろ。欲しいものがあれば何でも遠慮なく言って」
舞奈は唇を噛み、ペンダントに視線を止めた。
「景一、あのペンダントがいい。すごく綺麗……」
景一は愛おしそうに彼女の頭を撫でた。「分かった。必ず君のために競り落としてあげるよ」
競りが始まった。舞奈が勝ち誇ったような視線をこちらに向けてくる。
「浅井様、二千万円」
景一は私を一瞥することもなく、淡々と札を上げた。
「瀬戸様、四千万円」
私は奥歯を噛み締め、指が肉に食い込むほどの力で拳を握った。
「景一……どうしても私と競い合うつもり?」
私は震える声を絞り出し、彼に縋るように訴えた。
「お願い……あれは、お母さんがこの世に遺してくれた、たった一つの形見なの。これだけは、私に譲ってくれないかな?」
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