愛は、花を慈しむように第1話
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結婚して五年――
高橋美和は、幾度もの体外受精の苦しみに耐え抜き、ようやく藤原言弥との子を授かった。
だが、その喜びに浸る間もなく、美和は病院の廊下で信じがたい光景を目にしてしまう。
産婦人科の前で、言弥が秘書の中村さやかを守るように寄り添っていたのだ。
崩れ落ちるように問いただす美和に、言弥は冷たい視線を落とした。
「美和、頼むから取り乱さないでくれ。落ち着いたら、ちゃんと話す。この子だけは……どうしても産ませてやりたいんだ」
そう言い残し、怯えるさやかを抱き寄せてその場を立ち去った。
彼は気づかなかった。美和の足元に広がっていく、赤黒い血の色に。
――その日を境に、美和は藤原家から姿を消し、言弥の世界からも静かに消えていった。
そして数ヶ月後、すべてを失ったことに気づいた言弥は、ようやく取り返しのつかない絶望の淵に立たされることになるのだった。
* * *
診察室を出たばかりの高橋美和(たかはし みわ)は、胸の高鳴りを抑えきれずに夫の藤原言弥(ふじわら ことや)に電話をかけた。
しかし、その着信音が人混みの中から響き渡った瞬間、彼女は固まった。視線の先に映った光景は、彼女の心を粉々に砕くものだった。
――数日前、出張で付き添えないと言っていたはずの言弥が、そこにいたのだ。
その隣には、少し膨らんだお腹を抱えた若い女性が、親しげに言弥の手を自分の腹の上へと導いていた。
やがて言弥の顔に、驚きと安堵が交じった表情が浮かぶ。
それは、美和が何度も夢見た――彼が自分の妊娠を知った時に見せるはずだった表情、そのものだった。
しかし、現実はあまりにも残酷だった。
美和は言葉を失い、その場に立ち尽くす。喉に何かが詰まり、声すら出せなかった。
鳴り止まない着信音を前にしても、言弥はスマホを取ろうとはしなかった。
震える手で、美和はもう一度電話をかけ直した。
言弥はようやく女性の腹からそっと手を離すと、眉をひそめてスマホを取り出した。
画面に浮かぶ美和の名前を確認した瞬間、彼の眉間の皺はさらに深まり、背を向けて電話に出ようとした。
だが視線を上げた途端、少し離れた場所で青ざめた美和と目が合った。
その瞬間、言弥の瞳に一瞬だけ焦りがよぎった。
「美和……君が、どうしてここに?」
言弥の声に反応し、隣の女性も振り向いた。
それは、彼の秘書を務めている中村さやか(なかむら さやか)だった。
大学を卒業したばかりで、家計に余裕のないさやかを、特別採用したのは美和だった。
かつては美和に深く感謝していたさやかの瞳には、今は理解できない得意げな光が宿っていた。
美和は、鉛のように重くなった足を運び、一歩ずつ言弥へと近づいていく。
ほんの数歩の距離なのに、まるで半生をかけて歩んでいるかのように感じられる。
胸の奥で渦巻く想いは言葉にならず、どう受け止めればいいのかもわからなかった。
「君だけを愛している」と言ってくれた男が、他の女に子どもを授けていたなんて――
言弥の表情は、最初の焦りから徐々に冷静さを取り戻し、覚悟を決めたようだった。
そして美和が目の前に立つ頃には、いつもの穏やかな顔へと戻っていた。
言弥は手を伸ばし、優しく抱き寄せようとしながら、心配そうに語りかける。
「美和、どうして病院に?体調でも悪いのか?」
美和はその手を振りほどき、震えた声で問い返した。
「……あなたこそ、どうしてここにいるの?」
言弥は足を止め、淡々と答えた。
「中村さんの検診に付き添っているんだ。……彼女は俺の子を妊娠している」
あまりにも自然なその言葉に、美和は自分が執拗に説明を求めようとしていたことが滑稽に思えた。
つい涙が堪えきれず、美和の頬をつたう涙が止めどなく溢れ落ちた。
その涙を見た途端、言弥は動揺し、瞳に痛切な色が浮かぶ。
「美和、泣かないでくれ……これは、君が思っているようなことじゃない。浮気なんてしたくなかった……俺が愛しているのは君だけなんだ……」
そのとき、目を赤くしたさやかが言弥の背後から出てきて、声を詰まらせながら言った。
「美和さん、ごめんなさい……私たちは、美和さんが思っているような関係じゃなくて……」
謝罪にもかかわらず、その目には明らかな挑発の色が浮かんでいた。
理性が一瞬にして砕け散り、美和はさやかへ向かって突進した。
心の奥底に沈殿していた怒りを、その頬にぶつけるために――
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