愛の残響第2話
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翌朝、空がまだ薄暗い頃、聡真は家を出た。
私の隣に誰がいるかなど、もうどうでもよかった。淡々と荷物をまとめ、渡航の準備を進める。
「羽純、いつこっちに来る?」
電話の向こうから聞こえる兄の声は、荒んだ心をそっと包み込むようだった。
「一週間後」声は穏やかだったが、そこには揺るぎない決意が宿っていた。
軽く言葉を交わし、私は電話を切る。
そして振り返ったその瞬間、息が止まりそうになった。扉の前に立つ聡真。
心臓が凍りつくような感覚を覚えながらも、私は何も知らぬふりをして椅子に腰を下ろした。
「羽純?」低く、慎重な声。
私は手をそっと伸ばし、探るように空を撫でる。「聡真?帰ってきたの?」
彼は短く「ああ」と答え、私のスマホを手に取る。
その指が、画面に映る通話履歴の名前の上で止まった。
「兄さんと連絡を取ったのか?」彼の声が、一段低くなる。
かつて、兄が私をM国へ連れて行こうとした時、聡真は必死に私を引き止めた。
私の治療よりも、そばにいることを選んでほしいと、何度も何度も懇願した。そして私は彼の言葉を信じ、ここに残った。
だからこそ、彼は今でも、私と兄が繋がることを極端に嫌っていた。
私は静かに微笑み、落ち着いた声で答える。「うん、兄が私のことを心配して連絡してきたの。ただ、それだけよ」
聡真は一瞬じっと私の顔を見つめ、疑念を探るようだった。だが、私の表情に何の違和感も見つけられなかったのか、やがて小さく息をついた。
そして、ふいに扉の向こうへと声をかける。「入ってこい」
その言葉とともに、美咲が不満げに唇を尖らせて部屋へ入ってきた。
「羽純、きみのために新しい家政婦を雇った。
俺がいない間、この人が身の回りの世話をする」
前田さんという家政婦がいた。
二年間、何の問題もなく仕えてくれた前田さんを、彼は二日前に突然解雇した。
理由は「料理が口に合わない」
「たったそれだけの理由で?」驚いたが、何も言わなかった。
今になって思えば、それはただの口実だったのだとわかる。彼は、この女を家に入れるために、すべてを準備していたのだ。
聡真が軽く顎をしゃくると、美咲は満足げに微笑み、私の方へ一歩踏み出した。
「奥様、ご安心くださいね。私、目の不自由な方のお世話には慣れてますので……」
瞬間、空気が張り詰める。彼女は言葉を言い終わる前に、聡真の冷たい視線を受け、慌てて口をつぐんだ。
「あなたが決めたことなら、それでいいわ」淡々と告げると、私はゆっくりと欠伸をかみ殺す。
「少し疲れたから、休むわ……」
言い終わらぬうちに、聡真は「じゃあ行こう」と言い、美咲を連れ出した。
彼女が挑発的に彼の手を握るのが見えた。
彼は、一瞬、私を見た。しかし何も言わず、彼女の腰を抱きながら部屋を出ていった。
胸が、痛む。思い出したくもない光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
気づけば、私は意識を手放していた。
目を覚ました私は、そっと廊下へ足を踏み出す。
そして、目にしたのは——メイド服を着た美咲が、四つん這いで床を磨く姿。彼女は腰をくねらせながら、聡真の足元に体を寄せる。
ソファに座る聡真は、手にした書類を見つめながらも、その視線はまったく動かない。むしろ、彼女の胸元をじっと見つめ、喉を鳴らしている。
この光景は、すでに日常になっていた。
聡真が会社へ行くと、彼女はすぐに態度を変える。
私の歩く廊下にわざと物を置き、転ばせる。
私の悲鳴を聞いてから、わざとゆっくりと歩み寄り、鼻で笑いながら言った。
「まあ、大変!奥様って目が見えなかったんですものね?」
わざとらしく謝りながらも、瞳には嘲笑が浮かんでいた。私は拳に力を込めた。
今は、まだ時ではない。
聡真が帰宅すると、彼女は再び気配りのある態度を見せ、私にお茶を持ってきたり、食事を運んだり、世話をしてくれた。
だが、彼女の行為は日を追うごとにエスカレートしていった。
そして、その夜——
聡真が私の手を引いて寝室へ入ろうとした時。
ベッドの上には、私のナイトガウンをまとった美咲がいた。
スカートの裾はあらわに短く、白い肌がちらつく。聡真はその姿を見た途端、喉を鳴らした。
彼は軽く咳払いをして、私を浴室へ連れていった。「……ちょっと散らかってるな。片付けてくる。
羽純、お前は先に洗面所で支度してくれ」
慌ただしく扉を閉める。
だが、私の耳には、扉の向こうの声がはっきりと届いていた。
「正気か?ここは羽純と俺の部屋だぞ」
美咲は軽く彼を押しのけ、彼の上に乗って甘えた声で言った。
「赤ちゃんがね、パパが恋しいって言ってるの」
私は、ゆっくりと洗面所の扉を押し開けた。
その瞬間、二人の体がビクリと震える。
私は微笑みながら、首を傾げる。「どうしたの、あなた?
……さっき、家政婦の声が聞こえた気がしたのだけど?」
聡真は、飛び跳ねるように立ち上がり、慌てて美咲を突き飛ばす。彼女はバランスを崩し、ベッドの隅へと転がった。
「な、何でもない……
家政婦が掃除してただけだ……」
そう言うと、彼はそばにいる人を引っ張って押し出した。
私は、その光景をただ黙って見つめていた。
なぜか、胸が少し痛むような気がした。
テレビドラマのように、彼らの醜い顔をかっこよく暴露できると思っていたのに、
今ではただ淡々と「うん」と言うだけだった。
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