愛されるべき人は彼女、消えていい人は私第1話
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足首を捻挫してベッドで寝込んでいた私、朝山遥華(あさやま はるか)のもとへ、友人たちが見舞いに来てくれていた。その矢先だった。突然、台所から火の手が上がったのは。
真っ黒な煙が、瞬く間に室内を呑み込んでいく。
夫の朝山克己(あさやま かつみ)は白澤彩也子(しろさわ さやこ)の手を引くと、外へと駆け出した。
私の兄、小原慎一(おはら しんいち)はそこにあった防災マスクを彩也子の顔へ押し当てる。
私の親友、樋上小織(ひのうえ さおり)は何かが落ちてきても怪我をしないようにと、彩也子の頭を抱え込むようにして庇っていた。
一行が階段を下りきったところで、彩也子がふと足を止め、背後を振り返ったらしい。
「遥華は?まだ下りてきてないんじゃ……!」
克己が窓を見上げる。そこからは、なおも黒煙が噴き出していた。
「てっきり、後ろに続いているものだと……」
慎一がつぶやく。
「俺も、小織が一緒に連れてきているものとばかり」
小織が何かを言いかけて、ふっと言葉を呑み込んだ。
「私……彩也子のことで頭がいっぱいで、気が回らなくて……」
* * *
彩也子が弾かれたように振り返り、建物の中へ駆け戻ろうとした。
克己がとっさに彼女の腕を強く引いた。
「だめだ。お前は子供の頃に肺を患っている。煙を吸ってはいけない」
彩也子は焦りで目を真っ赤にしていた。
「じゃあ、遥華はどうなるの……!」
小織がその肩をそっと抱き寄せる。
「消防隊の人が、きっと助けてくれるよ」
幸い、私が消防隊に救出されるまで、そう時間はかからなかった。
救急車の中で、彩也子は私を見つめたまま、涙で目を赤くしていた。
「遥華……ごめんなさい」
大丈夫、と言おうとした。けれど口を開いた途端、喉が痛んで、声が出なかった。
代わりに口を開いたのは小織だった。
「遥華はあなたを責めたりしないよ。悪気があって置いていったわけじゃないんだし」
慎一もそれに同調する。
「遥華は昔から物分かりのいい子だろ。何もかも自分のせいにするな」
克己が、彩也子の髪をそっと撫でた。
「今は自分の体のことだけ考えろ」
病院に着くと、医師が「ご家族の方はいらっしゃいますか」と尋ねた。
3人が、ほとんど同時に足を止めた。
克己は私をちらりと見やり、それからまだ咳の止まらない彩也子に目を移す。
「妻が担架の上です。先にそちらを診てください」
そう言って、私のあとを2、3歩追ってきた。
彩也子の脇にいた看護師が、喘息の既往はないかと尋ねる。
克己はすぐに足を止めた。
7歳の時の肺炎、12歳の時の呼吸器のけいれん症状、去年の秋のアレルギーによる入院。彼は淀みなく答えてみせた。
看護師はそれを書き留めると、今度は私を指して聞いた。
「あちらの患者さんに、持病は?」
克己は一瞬、黙り込んだ。
「……特には、なかったと思います」
私はそっと目を閉じた。
結婚して3年。彼は彩也子の子供の頃の入院歴を、ひとつも忘れていない。
なのに、私が2年前に肺の手術を受けたことすら知らずにいる。
処置室の照明は、刺すように白い。
検査報告に目を通した医師が、克己の方を向いた。
「患者さんに肺の手術歴がありますね。何年前のことですか?切除の範囲は?術後、長く注意すべき点は聞いていますか」
克己が固まり、ちらりと私を見る。その顔には見覚えがありすぎた。私自身の話になるたび、彼が一拍遅れて戸惑いながら理解しようとする、あの表情だ。
「手術?」
彼は眉をひそめる。
「手術とは、何のことですか?」
聞き取れなかったのだと思ったのか、医師はもう一度繰り返した。
「CTでは右肺の下葉に、はっきりとした手術痕が見えます。少なくとも1年以上前のものかと。ご家族は、何も知らないのですか?」
克己は答えなかった。
横から慎一が口を挟む。
「遥華は昔から体は丈夫な方で……そんな大きな手術なんて、したことはないと思いますが」
小織も続いた。
「あの子、痛いなんてほとんど言わない子だから。きっと小さな手術で、ひとりで耐えたんじゃないかと」
医師の視線が3人の顔をゆっくりとなぞり、どこか微妙な色を帯びた。
「肺の部分切除は、小さな手術ではありません。術後半年は激しい運動を避け、定期的に肺機能の検査が要ります」
少し間を置いて、また続いた。
「本当に、ご存じなかったんですか?」
3人とも、言葉を失った。
だが、その沈黙は数秒しか続かなかった。隣のベッドで、彩也子が小さく咳き込んだのだ。
3人はほぼ同時に振り向いた。
克己が、ペニシリンは使えないと告げる。
慎一が、ある咳止めにアレルギーがあると付け足す。
小織はもう鞄から吸入器を取り出していた。1回に何吸入するかまで、迷いなく答えて。
3人の呼吸はぴたりと合っていた。まるで数えきれないほど稽古を重ねたかのように。
この白い照明の方が、あの黒煙よりもよほど息苦しいと、天井を見上げながら私は思った。
医師は私を入院させ、経過を見ることにした。煙を吸ったせいで手術を受けた肺が感染を起こす恐れがあり、足首の捻挫も固定して安静にする必要があるという。
しばらくして、彩也子を落ち着かせた3人が、ひとり、またひとりと私の病室に現れた。
克己はカルテの【右肺部分切除】という文字を、長い間じっと見つめていた。ようやく開いた口から漏れた声には、どこか責めるような響きがあった。
「……こんな大事なこと、どうして黙ってたんだ」
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