愛が消えた時第1話
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医者に「もう手の施しようがない」と宣告されたのは、ほんの数日前のことだった。
肺がんが全身に転移し、余命はわずか三日。
その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを受け入れた。
何もできない。けれど、何かを残したい。
だから、自ら進んで臓器提供の同意書にサインした。
たとえ命が尽きても、私の体の一部が誰かの命を救えるのなら、それだけで十分だと思った。
病を告げられた時、私は家族に正直に打ち明けた。
でも、医者である姉は私がただの被害妄想に囚われているだけだと一蹴した。
「それは精神の問題で、癌なんかじゃない」と。
両親はすべてを姉に任せ、治療の方針も判断も、彼女の言うとおりに進められた。
その結果、私は確実に死に向かっていった。
そして、私が本当に死んでしまったそのとき、ようやく、両親も婚約者も、私の亡骸の前で泣き崩れた。
* * *
私はちょうど病院の入口に差し掛かったところだった。
その瞬間、鋭く突き刺さるような痛みが肺を襲い、思わず足が止まった。
激しい咳が止まらず、呼吸さえもままならない。
壁にもたれ、肩で息をしながら額には汗がにじむ。
そんなとき、背後から穏やかな男性の声が響いた。
「美月?」
佐藤健太(さとうけんた)だった。
私・中村美月(なかむらみづき)の婚約者であり、この町で裏の世界を牛耳るマフィアのボス。
私はとっさに身を引こうとした。
けれど、その前に大きな手が私の手首をしっかりと掴んだ。
「美月、なんでここに?紗季がずっと探してた。あなたはまた病院から抜け出したのか?治療が嫌で逃げたんだろ?」
私は何も言えずに視線を落とした。
中村紗季(なかむらさき)の「治療」なんて、実際はただの虐待だ。
でも、そんなことを言っても誰も信じてくれない。
もうすぐ死ぬ私が何を言っても、無駄にしか思えなかった。
肺の痛みはどんどん酷くなり、私は堪えきれずに身体を折り曲げた。
健太はそんな私を見て、また仮病だと思ったようで、困ったように眉をひそめて言った。
「美月、もうやめようよ。紗季はあなたのお姉さんだよ?あなたを傷つけるわけないだろ?とにかく戻ろう。紗季があなたの被害妄想が悪化してるからって、新しい治療プランを立てたんだ。ちゃんと治療すれば良くなるって」
健太は私の手を引き、強引に診察室へ連れ戻した。
紗季は誰かと話していたが、私の姿を見るなり表情が一瞬だけ歪んだ。
でもすぐに、作り物のような優しさで取り繕った。
「美月、一人で外に出るなんて危ないでしょ?」
私は彼女を見ようともせず、ただ黙っていた。
けれど紗季は気にも留めず、淡々と続ける。
「また発作が起きたのね。私が彼女を傷つけるって思い込んでるの。新しい治療を始めるしかないわ」
「違う!」
私はかすかに否定しようとした。
だが、紗季は私の言葉を遮った。
「やっぱり、治療への抵抗が強いわね。症状が悪化してる証拠だわ。健太、彼女を見張ってて。私は準備してくる」
私は言葉を失い、下を向いたまま涙を流した。
紗季の「治療」は、私を椅子に縛りつけられ、正体不明の薬を次々に注射されることだった。
味覚を失い、咳き込みがひどくなり、食事すら喉を通らない。
しかし両親も健太も、それを「正しい治療」だと信じていた。
私はただ黙って受け入れるしかなかった。
十二歳のとき、私は人攫いに連れて行かれた。
物乞いを強制され、逆らえば殴られ、食事も与えられない日々。
やっとの思いで逃げ出して帰宅したとき、そこには見知らぬ少女がいた。
彼女の名前は紗季。
両親は「美月がいない間、寂しくて……代わりに娘を迎えた」と言った。
姉ができたなら、もっと愛されるだろう、私はそう思った。
でも、現実は違った。
紗季はいつも私の悪口を親に吹き込み、自分は優しく、気遣いのできる理想の娘を演じた。
いつの間にか両親は私を「乱暴で、誘拐されたせいで性格がねじ曲がった子」と決めつけるようになった。
健太も、私の幼馴染で婚約者のはずの彼さえも、知らないうちに紗季を褒めるようになっていた。
帰宅して間もなく、私は咳と血に悩まされるようになった。
呼吸が苦しく、夜は眠れないほど咳き込んだ。
両親は紗季の働く私立病院で検査を受けさせた。
結果は「ただの肺の炎症」で、抗生物質を飲めば治ると言われた。
でも、私は信じられなかった。
あんなに血を吐いているのに?
夜通し咳き込んで、息もできないのに?
何度も再検査を訴えたけれど、紗季は私に言った。
「あなたは精神の病気よ。被害妄想がひどくなってるの」
そして両親は言った。
「紗季は名医だ。彼女の言う通りにするんだよ」と。
私は治療を拒んで何度も逃げようとしたが、そのたびに健太が連れ戻した。
今回も彼は私を責めるように言ってくる。
「紗季はあなたのために、あれだけ頑張ってるのに……それを無視して逃げるなんて、ひどいと思わない?美月、いい子にして、もう騒がないで。ね?」
私は彼を悲しそうに見つめていた。
かつて「ずっとあなたを信じる」と言ってくれた健太に、わずかな希望をかけて。
けれど今の彼は紗季の言葉しか信じていない。
「健太、彼女を縛っておいて。すぐ逃げようとするから」
健太は私に優しく言った。
「美月、治療は辛いって分かってるよ。でもあと少しだけ、頑張ってくれない?三日後は僕たちの結婚式なんだから」
涙が止まらなかった。
心は恐怖でいっぱいだった。
それでも、私は静かにうなずいた。
「うん、治療、受ける」
私は自分からベッドに横たわり、抵抗せず手足を固定されるままにした。
健太は嬉しそうに顔をほころばせた。
「美月、やっと素直になってくれたんだね。本当にえらいよ」
彼が驚くのも当然だった。
以前の私は治療のたびに暴れ、何人もの手で押さえつけなければならなかったのだから。
手首にロープが食い込むたび、私はぽつりとつぶやいた。
「健太……治療、すごく痛いの……」
私はそっと目を閉じ、心の中でこっそり思った。
私が死んだあの日、内臓から出血して、息もできなくなって……きっと、こんなふうに痛かったのかな。
でもわからないのは、治療のときの痛みと死ぬ瞬間の痛み、どっちのほうが辛かったのかってこと……
健太は去る前に私の頬にキスをしてから言った。
「美月、本当によく頑張ったね。ちょっと痛むかもしれないけど、すぐ終わるから。
美月なら絶対に乗り越えられる。外で待ってるよ」
彼が部屋を出ていったあと、紗季の顔が変わった。
彼女は見下すように私を見つめ、冷笑を浮かべた。
「美月、あのまま乞食でいればよかったのに。なんで帰ってきて私の居場所を奪おうとするの?中村家の娘は一人だけ。健太の婚約者も私だけよ」
私は唇を噛みしめ、何も言わなかった。
紗季は勝手に話を続ける。
「あなた、健太のこと好きなんでしょ?でも、あなたが死んだらどうなると思う?彼は泣いちゃうかな?でも安心して。あなたが死んだら、私がちゃんと慰めてあげる」
そう言って、紗季はボタンを押した。
治療台の下から這い出した電線が、青白い光を放ちながら電流を走らせた。
全身がビクビクと痙攣し、私は必死に叫ぶのを堪えた。
でも紗季は容赦なく出力を上げていく。
「あ!」
ついに悲鳴が漏れたとき、紗季はガーゼを私の口に無理やり詰め込んだ。
私は歯を食いしばり、苦しみながらも必死に耐えた。
焦げた匂いが鼻を刺し、口の中には血の味が広がっていった。
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