息子を捨てた夫が、命で償った日第2話
この話は約3241字。当サイトでは第1〜3話を試し読みできます。
手術が終わったのは、五時間が経ってからだった。
眼球はなんとか残せた。湊は泣き疲れ、病室のベッドの隅で体を丸めて眠っていた。
私はその隙に、着替えを取りに家へ戻った。
玄関のドアを開けた瞬間、私はその場に立ち尽くした。
リビングはまるで空き巣に入られた後のようだった。引き出しはすべて開け放たれ、物が床一面に散乱し、その荒れようは主寝室の入口まで続いていた。
中へ入ると、半年ものあいだ家に寄りつかなかった悠真が、クローゼットの前に片膝をつき、何かを探し回っていた。
「何を探してるの?」
私が尋ねても、彼は答えなかった。ただ黙って手を動かし続けている。
息子のことを思い出し、私はもう一度口を開いた。
「湊が学校でいじめられたの。明日、一緒に学校へ行って。今回ばかりは、本当にあなたが必要なの」
私の服は床に投げ出され、高級な革靴で何度も踏みつけられていた。
悠真は顔も上げない。明らかに上の空だった。
「ああ、湊が学校で何かやらかしたのか?」
まるで話が通じていなかった。
目当ての物が見つからなかったらしく、彼は立ち上がると、その苛立ちをすべて私にぶつけてきた。
「柚希、お前は本当に母親失格だな。俺は忙しいんだ。どうでもいいことで、いちいち俺を呼び出すな」
そう言うと、彼はまた身をかがめ、自分の大事な物を探し始めた。
つまり、担任からのあの電話を、彼は一言も聞いていなかったのか。
それとも、そもそも気にも留めていなかったのか。
あるいは、私からのメッセージなど読んですらおらず、息子がいじめられたことも、私が離婚を切り出したことも知らないのかもしれない。
月明かりだけが差し込む部屋は、息が詰まるほど静まり返っていた。
壁の時計の針が、耳元でかちかちと音を立てていた。
普段なら、茉莉が悠真を家に帰すはずがない。
案の定、長針が一周するかしないかのうちに、彼女から電話がかかってきた。
専用の着信音が一小節も流れきらないうちに、悠真はすぐさま通話ボタンを押した。声は、別人のように優しかった。
「どうした、茉莉?」
相手が何かを言った途端、彼の顔色がみるみる険しくなっていった。
「何だって?陽翔が学校でいじめられた?」
悠真が額に青筋を浮かべるほど怒ることなど、めったにない。
それを今日、私は他人のために目にした。
「分かった。明日は必ず行く。息子のために、きっちりけじめをつけさせる」
電話を切ると、悠真はようやくクローゼットの奥から衣装カバーを引っ張り出した。
「あった!」
中に入っていたのは、コービーの希少なユニフォームだった。
それは、私と息子が何より大切にしていたものだ。
コービーの引退試合のあと、悠真があらゆる伝手を使い、高額で私たちのために落札してくれたものだった。
あの頃、彼は息子にこう言っていた。
「いつかお父さんとお母さんが、湊をレイカーズのホームアリーナに連れていってやる。その時は、このユニフォームを着て行こうな」
その息子は今も、病院のベッドに横たわっている。
私は彼に尋ねた。
「やっと家に帰ってきたと思ったら、そのためだったの?」
悠真は「うん」とだけ答えた。
「茉莉もコービーの大ファンなんだ。彼女と陽翔が、俺がこのユニフォームを持ってるって聞いて欲しがってる。それがどうした?」
彼があまりにも平然とそう言うのを見て、かえって胸のつかえが落ちた。
どうせ、もう未来なんてないのだから。
そうでしょう?
私が黙っていると、彼はなぜか急に腹を立て、声を荒らげた。
「そんなクズを見るような目で俺を見るな!賭けはまだ終わっていない。なら俺は茉莉の夫で、陽翔の父親だ。俺には俺の責任がある!」
責任?
八年付き合い、七年、彼の起業を支えた。
何もないところから、すべてを一緒に築き上げた。
会社の中核技術は、私が身を削って開発したものだ。
成功して名を上げたあと、私は表舞台から退き、彼を支えるためにすべてを引き受けた。悠真は優秀な経営者として、まばゆいほどの称賛を浴びた。
それなのに彼は、たった一つの賭けを理由に妻と子を捨て、別の女の夫になりに行った。
そうか。
あの二人は昔、誤解さえなければ別れずに済んだのだ。
きっと、とっくに結婚していたのだろう。
今はただ、賭けという口実を借りて、果たせなかった夫婦になる夢を叶えているだけ。
他人の息子でさえ、彼は実の子のように扱いたくて仕方がない。
余計なのは、私と息子のほうだった。
「あなたの言う通りね」
私がそう言うと、彼は一瞬、呆気に取られたようだった。
たぶん、私がこんなに落ち着いているとは思わなかったのだろう。
けれどすぐに、点灯した催促のメッセージへ視線を奪われた。
「じゃあ、行く」
私の返事も待たず、彼はそのユニフォームを手に取り、振り返りもせず出ていった。
私はその場に立ち尽くし、しばらくしてから、床に落ちて汚れた自分の服を拾い上げた。
手で払ってみても、汚れは落ちなかった。
なら、もういらない。
病院へ戻る途中、スマホが何度も震えた。
茉莉からのメッセージだった。
【半年前、私が賭けをやめてもいいって言って、あんたに逃げ道を作ってあげたのに、あんたは勝手に帰ったよね。今さら用もないのに、うちの夫にちょっかい出して何がしたいの?】
【逆の立場だったらどう思う?どこかの女が毎日、自分の夫に色目を使ってきたら、気持ち悪くない?】
【少しは距離感をわきまえたら?あなたは平気でも、うちの夫はうんざりしてるの】
続けて、動画が一つ送られてきた。
画面の中で、茉莉はあの希少なユニフォームを着ていた。
カメラが少し揺れ、その後ろにはシャワーを浴びている悠真が映った。
ドアは閉まっておらず、水滴が引き締まった体の線を伝い、一つ、また一つと落ちていく。
かつて私は、彼が異性との距離感をわきまえないことをひどく気にしていた。
彼はそんな私を、心が狭いと笑い、自分には越えない一線があると言っていた。
その一線とは、裸を見せることだったらしい。
今、私はその動画を見ても、吐き気以外に何の感情も湧かなかった。
翌朝、私はいつもよりずっと早く起きた。
出かけようとした時、息子が私の手をぎゅっと握った。
「お母さん、湊も学校に行く。お父さんが、勇敢な男の子が好きだって言ってたから。湊、ちゃんと全部に向き合いたい」
右目には包帯が巻かれ、まだ血がにじんでいた。それでも、もう片方の目は澄んでいて、まっすぐだった。
私はうなずくしかなかった。
園長室のドアを開けた時、まさか悠真がいるとは思わなかった。
彼は園長の向かいに座り、きちんとスーツを着込んで、何かを話していた。
「お母さん、見て!」
湊は声を震わせるほど興奮していた。
「お父さん、やっぱり僕のこと気にしてくれてたんだ!僕の味方をしに来てくれたんだ!」
胸の奥がきゅっと痛んだ。
少なくとも……息子に対して、まだ情がまったく残っていないわけではないのだ。
湊は私の手を引いて中へ走ろうとした。
けれど、その足がふいに止まった。
私の手のひらの中で、小さな手が抑えようもなく震え始める。
息子の顔から、一瞬で血の気が引いた。
私は息子の視線を追った。
悠真は一人の男の子をかばうように立ち、そのそばには茉莉がいた。
彼は指先で机を叩きながら、園長に圧をかけていた。
「うちの息子は素直で聞き分けのいい子だ。コンパスで同級生の目を刺すなんて、絶対にありえない。これは濡れ衣だ。先に被害者ぶっているだけだろう!相手の保護者を呼んで、ここではっきりさせろ!」
彼は正義を振りかざすように怒鳴っていた。けれど、自分の息子がいじめられたことさえ知らなかった。
茉莉もすかさず続けた。
「きっとその子が先に何かしたんです!退学にさせるべきだわ!」
後ろ盾を得て、白石陽翔(しらいし はると)はますます得意げになり、顎を上げて言い放った。
「僕、あの出来損ないが嫌いなんだよ。退学しないなら、今回は目を潰しただけで済ませてやったけど、次は絶対にぶっ潰してやる!」
私はもう、我慢できなかった。
駆け寄るなり、陽翔の頬を思いきり平手打ちした。
縦書き表示中:本文は右から左へスクロールします(← → キーでも移動できます)