息子を捨てた夫が、命で償った日第3話
この話は約2963字。当サイトで読める3話の試し読みのうち、最後の話です。続きの第4話からは公式アプリで読めます。
彼は悲鳴を上げ、鼻血が鼻の下を伝って流れ落ちた。
私はそのまま彼を壁に押しつけた。
その瞬間、私の体の中では、「母性本能」という名の感情だけが煮えたぎっていた。それが理性も恐怖も、何もかも呑み込んでいく。
もう一度手を振り上げた時、視界の端で、悠真が息子を乱暴に引き寄せるのが見えた。
乾いた音が、二度続けて響いた。
彼は容赦なく、息子の頬を二発叩いた。
「お前が俺の息子を叩くなら、俺は倍にしてお前の息子に返す。もう一度でも手を出してみろ!」
湊は叩かれた勢いで顔を横に向けた。あまりに強く引っ張られたせいで、上着は肩までずり落ちていた。
ぽたり、ぽたり。
包帯ににじんだ血が目元を伝い、悠真の靴の上に落ちた。
それは、声にならない涙のようだった。
湊はその場に立ち尽くしたまま、泣きもせず、抵抗もしなかった。
ただ、いつだって澄んで輝いていた瞳に、薄い靄がかかっていた。
「悠真!」
胸の奥で、何かが弾け飛んだ。
けれど、彼がもう一度手を振り上げるのを見て、私は動きを止めるしかなかった。
私が手を離したその瞬間、陽翔は唇を突き出し、私の顔に唾を吐きかけた。
「ぺっ!腰抜け!」
ほかのことなど、もう構っていられなかった。
私は駆け寄り、息子を胸に抱きしめてかばった。こらえていた涙が、ついに落ちた。
私は顔を上げ、真っ赤な目で悠真を見た。
「あなたが茉莉と何をしていようと、私はもう何も言わない。あなたがよその女に料理を作ろうが、それもどうでもいい。でも、湊がいじめられたのに助けてくれないどころか、どうして赤の他人と一緒になって、この子まで傷つけるの?」
彼は私を見なかった。
陽翔の鼻血を拭くのに夢中で、痛ましそうに眉をひそめていた。
その表情を見た瞬間、湊を産んだ時のことを思い出した。
難産だったあの日も、彼は同じように眉をひそめ、私の手を握って言った。
「お前と息子のどちらかに何かあったら、俺も生きていけない」
あの人は、今も目の前にいる。
けれど、すべてが変わってしまった。
「どうして?」
私は、どうしても納得できなかった。
「もういい!」
悠真が怒鳴った。
「湊がけがをした件は、俺には事情が分からない。だが、陽翔が間違ったことをするはずがない。茉莉がきちんと育てているからだ。それに比べて湊はどうだ。お前が甘やかしたせいで、こんな子になったんだろうが」
こんな子?
私のほうこそ聞きたかった。
六歳の子が、どうしてここまで追い詰められなければならなかったのか。
父親がほかの子の手を引き、自分を知らないふりをした時。
湊は言った。
「お母さん、きっと湊がいい子じゃないから、お父さんは僕のことを見てくれないんだよ」
父親がよその子を寝かしつけていた夜、湊は三十九度の熱を出しても、必死に耐えていた。
終わりのない暗闇の中で、お父さん、お父さんと呼びながら、涙で枕を濡らしていた。
陽翔に「父親に見捨てられた子」と罵られ、壁際に追い詰められ、コンパスで眼球を刺された時。
私はどれほど願っただろう。
いっそこの子が、どうしようもない悪い子だったならよかったのに、と。
悪いのは私だ。
私が諦めきれずにすがったせいで、この子まで巻き込んでしまった。
「離婚しましょう」
そう口にした時、私は不思議なほど落ち着いていた。
「何だと?」
悠真が勢いよく身を起こした。その切れ長の目が、驚きに大きく見開かれる。
「ふざけるのも大概にしろ。先に手を出したのはお前だ。俺はそれを責めていないのに、離婚だと?」
彼はまっすぐ私を見据えた。
いつものように、私を押し切れると思っている目だった。
「三秒やる。今の言葉を取り消せ。俺は気に入らない」
けれど、今回は違った。
私はその視線を受け止めた。
もう愛も、憎しみもなかった。
「お父さん、お母さん!」
太ももにしがみついた息子が、ついに声を上げて泣き出した。
「湊のせいで、もう喧嘩しないで!湊、もう痛くないよ。全部、湊が悪いの……離婚しないで、離婚しないで。お願い……」
湊は私を揺さぶり、私のズボンには彼の血がこすりついていった。
私の息子はあんなに痛いはずなのに、そんな嘘までつく。
私はしゃがみ込み、息子を抱きしめた。
涙が音もなく流れた。
「園長先生、ご覧になりましたよね?」
それまで黙っていた茉莉が、息子を指さした。
「あの出来損な……湊くんは、もう自分の非を認めています。
全部この子のせいです。うちの息子は完全な被害者です。これ以上しつこくするなら、警察を呼びます」
この女!
私は反射的に飛び出し、彼女に平手打ちを食らわせようとした。
けれど、手が宙に浮いたままのところで、甲高い破裂音が響いた。
後頭部でガラスが砕けた音だった。
乾いていて、やけに鋭かった。
耳鳴りが、骨の隙間にまで染み込むように響く。
私は振り返った。
目の前がぐらぐらと揺れる中、悠真は右手に、底だけが残った保温ボトルを握っていた。
指先がかすかに震えている。
「自業自得だ」
私は無意識に首の後ろへ手を伸ばした。
血が、細かなガラス片と混じり合い、指の間から流れ落ちた。
「お母さん!」
息子が駆け寄り、私に抱きついて、胸が張り裂けそうな声で泣いた。
それでも悠真は、私に目もくれず、警察に通報した。
警察はすぐに駆けつけた。
園長室に入るなり、悠真は息子に矛先を向けた。
「俺はこの子の父親です。この子は素行が悪く、盗みもするし、嘘もつく。学校でも好き放題やっていて、今度は同級生にいじめられたと濡れ衣を着せています。
すべて中原柚希がそそのかしたんです。彼女は今、白石茉莉親子にけがまで負わせました。今日、彼女が謝らないなら、白石家は示談に応じません」
彼はいつも、自分は高潔な人間だと言わんばかりに振る舞っていた。
それなのに今は、茉莉のために、こんな見え透いた嘘まで平然と口にしている。
警察はおおよその事情を聞いたあと、判断に困ったようだった。
息子がけがをした時の防犯カメラは壊されていて、しかも私が手を上げたのは事実だった。
最後には警察官でさえ、困ったように私をなだめた。
「藤原さんは自分の息子さんに非があるとおっしゃっていますし、あなたが手を出したのも事実です。こちらとしても、まずは話し合いで解決していただくしかありません。
お子さんのけがはかなり重い。白石家側は、あなたが謝らなければ示談には応じないと言い張っています。ここは一度頭を下げて、先にお子さんを病院で診てもらったほうがいいでしょう」
私は息子を見た。
包帯はすっかり赤く染まり、濃い褐色の血のかさぶたが、青白い小さな顔に乾いてこびりついていた。
私は唇を噛み、血の味が広がるほど歯を食いしばった。
そして最後には、ゆっくりと腰を折った。
「申し訳ありませんでした。手を上げるべきではありませんでした」
視界の中で、茉莉のハイヒールが勝ち誇るように床を鳴らしていた。
顔を上げなくても、彼女がどんな得意げな顔をしているか分かった。
私は、完膚なきまでに負けた。
湊は病院へ運ばれ、二度目の縫合を受けた。
今度は、泣かなかった。
家に戻ったのは、深夜だった。
ドアを開けると、料理の匂いが鼻をくすぐった。
悠真はエプロンをつけ、ちょうどスペアリブの甘酢煮をテーブルに運んでいるところだった。
「帰ったのか?お前、俺がほかの人に料理を作るのが嫌だったんだろ?もう作らない。これからは、お前たちにだけ作る」
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