息子を捨てた夫が、命で償った日第1話
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私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。
医師は言った。
「失明するおそれがあります。お父さんにも連絡しておいてください」
私は震える手で、夫の藤原悠真(ふじわら ゆうま)に電話をかけた。
「湊がいじめに遭ったの。これから手術なの。お願い、すぐ病院に来て」
電話の向こうはひどく騒がしく、女の笑い声まで混じっていた。悠真は気の抜けた声で言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
湊はストレッチャーに横たわり、血のこびりついた目元から涙を流していた。
「お母さん、お父さんはもう僕のこと、好きじゃないの?」
私は苦笑いを浮かべ、なだめるように言った。
「お父さんは賭けに負けちゃったから、今だけ湊と距離を置いているの。好きじゃなくなったわけじゃないよ」
湊はそれを信じた。
私まで、危うく信じてしまうところだった。
半年前、悠真は自分の誕生日パーティーで、ずっと心に残っていた女性、白石茉莉(しらいし まり)との賭けに負け、一年間、彼女と夫婦のふりをすることになった。
私はその場で反対した。
悠真は、いかにも正論のように言い張った。
「賭けに負けた以上、約束は守るべきだ。人として、言ったことをなかったことにはできない。
ここにいる全員が証人だ。俺たちは今までずっと潔白だった。だが今日から、茉莉が俺の妻だ。お前とお前の息子は、俺と距離を置け」
* * *
私、中原柚希(なかはら ゆずき)の六歳になる息子が、学校でコンパスを目に突き刺された。
医師は言った。
「失明するおそれがあります。お父さんにも連絡しておいてください」
私は震える手で、夫の藤原悠真(ふじわら ゆうま)に電話をかけた。
「湊がいじめに遭ったの。これから手術なの。お願い、すぐ病院に来て」
電話の向こうはひどく騒がしく、女の笑い声まで混じっていた。悠真は気の抜けた声で言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
湊はストレッチャーに横たわり、血のこびりついた目元から涙を流していた。
「お母さん、お父さんはもう僕のこと、好きじゃないの?」
私は苦笑いを浮かべ、なだめるように言った。
「お父さんは賭けに負けちゃったから、今だけ湊と距離を置いているの。好きじゃなくなったわけじゃないよ」
湊はそれを信じた。
私まで、危うく信じてしまうところだった。
半年前、悠真は自分の誕生日パーティーで、ずっと心に残っていた女性、白石茉莉(しらいし まり)との賭けに負け、一年間、彼女と夫婦のふりをすることになった。
私はその場で反対した。
悠真は、いかにも正論のように言い張った。
「賭けに負けた以上、約束は守るべきだ。人として、言ったことをなかったことにはできない。
ここにいる全員が証人だ。俺たちは今までずっと潔白だった。だが今日から、茉莉が俺の妻だ。お前とお前の息子は、俺と距離を置け」
息子の保護者会の日、彼は言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
私の母が亡くなり、葬儀の手配を手伝ってほしいと頼んだ時も、彼は言った。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
私が大きな交通事故に遭い、手術の同意書に彼の署名が必要だった時でさえ。
返ってきたのは、やはり同じ言葉だった。
「今は距離を置いている。連絡してくるな」
車椅子に乗って会員制クラブまで彼を捜しに行くと、茉莉はちょうど彼の膝の上に座っていた。周りの人々は拍手しながら、面白がってはやし立てていた。
「二人目!二人目!」
悠真が笑って応じたその瞬間、私はついに堪えきれなくなった。
彼は茉莉を抱き寄せたまま、私に顔を向けることすらしなかった。
「賭けはまだ半年残ってる。俺たち夫婦が二人目を作る話に、部外者のお前が口を挟むな」
茉莉は笑いながら彼をつねった。
「もう行こうよ。はいはい、あなたの負けでいいから。奥さんってば、ほんと冗談が通じないのね。そのうち、この場にいる男全員と私が関係を持ってるとでも言い出しそう。私、とんだとばっちりだわ」
そこで、意識が現実に引き戻された。
息子が手術室へ運ばれていくのを見届けたあと、私は十年ぶりにある番号へ電話をかけた。
【蓮、子どもの頃の約束、まだ覚えてる?】
黒崎蓮(くろさき れん)からはすぐに返事が来た。
【覚えてる。待ってろ。半月以内に帰国する】
子どもの頃、じゃんけんで私は蓮に負けた。彼は、私に自分と結婚しろと言った。
悠真には、守らなければならない賭けがある。
私にもある。
賭けに負けたなら、従うしかない。
それは誰だって同じでしょう。
……
医師によると、手術は局所麻酔でしかできないという。けれど息子には麻酔が効きにくかった。
手術室のランプは四時間つきっぱなしで、私は外で四時間、息子の泣き声を聞き続けた。
その痛みは、自分の体を刃物で切り裂かれるよりもつらかった。
途中、息子の担任から電話がかかってきた。声には苛立ちがにじんでいた。
「藤原湊(ふじわら みなと)くんのお母さん、湊くんのお父さんはいったいどうなっているんですか?学校としては双方の保護者に連絡して、明日、いじめの件について話し合うことになっています。私が電話したら、あの方、なんて言ったと思います?
自分は子どもの父親じゃない、迷惑をかけるなって言ったんですよ!」
喉が詰まった。
あまりにも馬鹿げた事情を、どうしても口にできなかった。
しばらくして、私はただ一言だけ返した。
「申し訳ありません、先生。子どもの父親には、私から連絡します」
電話を切ったあと、私は悠真とのトーク画面を開いたまま、長いこと指を止めていた。
そして、彼のSNSを開いた。
夫婦になって七年、私は彼の居場所を、SNSでしか知ることができなかった。
案の定、最新の動画は三分前に投稿されたばかりだった。
画面の中では、かつて「俺の手は契約書にサインするためにある」と言っていた彼が、温かな料理を何品も並べ、親しげに茉莉の口元へ運んでいた。そして彼のすぐ隣には、中学生くらいの少年がぴったり寄り添っていた。
添えられた一文は、
【父親でいるって、こんなにも幸せなんだな】
息子の悲鳴が何度も何度も響く中、私はその投稿に「いいね」を押した。
それからトーク画面に、こう入力した。
【悠真、離婚しましょう】
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